帝國博物学協会
陸奥國
厨川柵
 所在地 岩手県盛岡市天昌寺町
 交通機関 JR東北新幹線 盛岡駅下車 徒歩15分
 別  名 -
 略  歴 厨川柵は、衣川柵を本拠とする陸奥の豪族安倍氏によって築かれた最北端の城柵である。
永承6(1051)年、この安倍氏から朝廷への貢租が滞る事態となった。そこで、当時の国司藤原登任が数千の兵をもって安倍氏を討伐すべく軍を派遣した。
この戦いは、安倍氏の圧勝に終わり、却って登任は都へ追われる結果となった。
事態を重く見た朝廷は、大赦により安倍氏の反逆の罪を許すことし、新たに陸奥国司として源頼義・義家を派遣して事態収拾を図った。
天喜4(1056)年、阿久利川の藤原光貞の営舎が襲撃されるとされる阿久利川事件が発生した。 頼義は貞任を襲撃犯として、安倍頼時に貞任の出頭を促したが頼時がこれを拒絶したため、再戦の事態となった。
当初は安倍氏の優位に展開したが、安倍頼時の死後、康平5(1062)年、出羽国豪族清原光頼が国司側に立って参戦すると、形勢は一気に逆転した。
貞任は、衣川柵から退き厨川柵と嫗戸柵に兵力を集中して守ったが、遂に陥落し、安倍氏は滅亡した。
安倍氏滅亡後、厨川柵は戦功のあった清原氏が支配したが、清原氏の滅亡後は奥州藤原氏の支配下となった。
文治5(1189)年、源頼朝は奥州藤原氏討伐の軍を率いて平泉を滅亡に追い込んだ。この際厨川柵には樋爪氏が籠城したが、頼朝軍によって落城し、奥州を手中にすることに成功した。
この戦いの後、この地には戦功によって伊豆より工藤行光が入封、嫗戸柵の地に館を築いて居館し、厨川柵は廃された。
 現  況 正確な柵の跡はわかっていないが、現在天昌寺の建っている台地上が柵の主郭にあたると推定されており、天昌寺裏に案内板と推定地標柱が立てられている。

厨川柵址
(天昌寺裏)

厨川柵擬定地
標柱

案内板

天昌寺

天昌寺境内

天昌寺東側

天昌寺北側

天昌寺東側

天昌寺西側

堀跡と推定
される西側の川

堀跡と推定
される西側の川

堀跡と推定
される西側の川
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