帝國博物学協会
陸奥國
盛岡城
 所在地 岩手県盛岡市内丸1  盛岡城跡公園(岩手公園)
 交通機関 JR東北新幹線 盛岡駅下車 徒歩15分
 別  名 不来方城(淡路館・慶善館)
 略  歴 盛岡の地はかつて不来方と呼ばれ、その名は南北朝期に記された「陸奥話紀」に逆志方の名で登場する。
同書には清原武則の甥であった橘頼為が領主であったと記されており、何らかの居館があったとも想定される。
永享11(1439)年、南部氏の家臣であった福士氏が「不来方殿」と呼ばれて居城したのが、不来方城の始まりである。
南部氏が盛岡の地に進出をするきっかけとなったのは、天正18(1590)年の豊臣秀吉が小田原城を本拠とする北条氏を攻め滅ぼした小田原征伐の際に、堀越城の大浦(津軽)為信に先手を打たれて津軽の地を失ったことに起因する。
この時、南部信直は秀吉より10万石の所領を安堵されたが、翌天正19(1581)年に行われた奥州仕置きで、九戸政実が当主信直に反乱を起こした。
政実はこの乱で信直率いる南部軍だけでなく、秀吉の差し遣わした連合軍に滅ぼされた。この後、信直は居城を三戸城から政実の居城であった九戸城(福岡城)へ移している。
また、この時城主であった福士伊勢守秀治は、九戸政実の縁戚に繋がるという理由で不来方城から鵜飼村に移された。
翌文禄元(1592)年、仕置き軍の軍監であった浅野長政や会津城に居城する蒲生氏郷らの、九戸城では所領の北辺に過ぎるとの助言を受けて、信直は不来方城の地を拡大して本拠とすべく整備を始めた。
慶長3(1598)年、信直は嫡男利直に命じて築城を開始した。
翌慶長4年、信直は城の完成を見ることなく病没したが、慶長5(1600)年に勃発した関ヶ原合戦で東軍に属した利直は、所領を安堵された。
利直は、不来方の地名が心悪しき文字であると忌み嫌い、新たに盛り上がり栄える岡と言う願いを込め、盛岡城に改めた。
城は中津川と北上古川に挟まれた岡上に占地しており、出水のため工事は難航した。
盛岡城が一応の完成を見たのは、3代重直の時、寛永10(1633)年の事であった。
しかし翌11年、盛岡城の本丸が火災により消失したため、藩主は一時福岡城に居城を移したが、翌12年に新装成った盛岡城に入城し、以後15代利恭まで歴代居城した。
幕末になると、14代利剛は幕府方の奥羽越列藩同盟に加盟し、慶応4(1868)年に官軍と交戦したが敗れて降伏、新政府によって領地を召し上げられ隠居を命じられた。
これにより長男利恭が後を継ぎ、白石城13万石に減転封された。
翌明治2(1869)年、利恭は盛岡への帰封を認められたが、廃藩置県により明治7(1874)年に廃城と決定された。
 現  況 盛岡城址は盛岡城跡公園として整備されており、白亜の石垣が美しく聳え立つ城として知られている。
城内には彦蔵と時鐘のみが移築されて現存している。
勘定所が置かれていた場所は、飲食店街となっているが、周囲の土塁と水掘がよく残されている。
また、報恩寺に城門が移築現存しており、そのほかにも木津屋本店と岩手川に土蔵が、徳清倉庫に勘定奉行所の一部が移築現存している。
城址には宮沢賢治の詩碑や石川啄木の歌碑が立てられており、本丸には南部氏42代利祥の騎馬像が立てられていたが、戦時中の供出で台座のみが残されている。
御新丸

御新丸郭内
勘定所

西側水濠南向き

北西側水濠

西北角水濠

西側水濠北向き

綱門跡

北東側水濠と
時鐘

時鐘

東側水濠北向き

東北角水濠と
時鐘

北東角水濠と
時鐘
新御蔵・彦蔵・台所

北側土塁と水濠

北側土塁と水濠

枡形門跡

三之丸西石垣下

二之丸西石垣下

彦蔵旧地付近

彦蔵

彦蔵

米内蔵門跡

彦蔵

材木木小屋東側
土塁跡付近の蔵

南東側土塁

南東側土塁

東側土塁

東側土塁と水濠跡

東側土塁

東側水濠

東側水濠

台所門跡

台所跡

台所跡のバラ園

三之丸東側

東側水濠

東側水濠

三之丸・二之丸・腰曲輪・淡路丸
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