帝國博物学協会
陸奥國
大浦城
 所在地 青森県弘前市賀田
 交通機関 JR奥羽本線 弘前駅下車 弘南バス中学校通り下車 徒歩5分
 別  名 西根城・八幡城・賀田城
 略  歴 文亀2(1502)年、種里城主南部光信は、津軽進出の拠点として、鯵ヶ沢街道に近い鼻和郡大浦郷の西山城を改修した。
光信は、この城に子の盛信を入れ、城を大浦城と称し、自らも大浦氏を名乗った。
大永6(1526)年、光信が種里城で死去すると、盛信は大浦氏の本城をこの大浦城に移し、その後政信・為則の3代がここを居城とした。
永禄10(1567)年、大浦氏5代為信が襲封した。この頃の津軽は、大仏ヶ鼻城(石川城)に拠る南部氏の代官石川高信が支配しており、これに反対する土豪勢力が少なくなかった。
為信は、南部氏と土豪勢力の争いを利用して、元亀2年(1571)年、大仏ヶ城に石川氏を襲い攻略、戦国大名として、本格的な津軽支配に乗り出した。
為信は更に同年、小山内讃岐守の守る和徳城を攻略、天正3(1575)年には大光寺城を攻略するなど、着実に勢力を伸張させた。
天正6(1578)年、それまで北津軽を支配していた名門北畠顕村が守る浪岡城を攻略し、津軽平野を完全に支配下に置いた。
天正13(1585)年、為信は油川城攻略、支配地域は外ヶ浜に及んだ。
為信は、中央の政治にも関心を払い、南部氏より早くから豊臣秀吉に近づき、天正18(1590)年の小田原征伐に参陣して、所領を安堵されている。
文禄3(1594)年、大浦城が支配地の西に偏りすぎている事から、本拠地を堀越城へ移し、大浦城は堀越城の支城となった。
元和元(1615)年、一国一城令によって、大浦城は廃城となった。
 現  況 城址は津軽中学校を含む、広大な場所であるが、市街化により多くは失われている。
三之丸は、津軽中学校の東側にわずかに残る場所が、唯一の痕跡で、多くは民有地となって破壊されている。
二之丸は、その殆どが、津軽中学校の建設によって破壊されており、南西側と北東側に多少空掘が残されているに過ぎないが、丹念に探すと、切岸などを発見できる。
西之丸・本丸は、畑や果樹園となっており、土地の高低差などで、郭の存在が判別できる。また、本丸北側は、津軽中学の校内になっており、校舎の建設により、完膚なきまでに破壊されている。
唯一、本丸西側に雄大な空掘が残されており、往時の大浦城の規模を知る事ができる。

大浦城址碑
三之丸

三之丸跡

三之丸跡

城址遠望

東側の土塁

東側の土塁

北側の土塁

北側の土塁

北側の土塁

二之丸三之丸
間の空掘
西之丸

南側空掘

北側空掘

北西側
ニ之丸

二之丸跡
(津軽中校庭)

東側堀跡

東側堀跡

東北角

北面

東北三之丸との
間の空堀

二之丸北面

二之丸北面

櫓台跡か?

二之丸南面

二之丸南面

大手付近

大手門跡

西南側空掘

西南側空掘

本 丸
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