帝國博物学協会
陸奥國
三戸城
 所在地 青森県三戸郡三戸町梅内字城ノ下
 交通機関 青い森鉄道 三戸駅下車 南部バス 公園前下車、徒歩15分
 別  名 留ヶ崎城・糠部城
 略  歴 三戸城は馬淵川と熊原川の合流点に、永禄年間(1558〜1569)、南部晴政が築城したのが創始とされる。
伝承によると、南部氏は甲斐源氏の一族で、文治5(1189)年、奥州征伐の軍功として糠部郡を与えられた南部光行を始祖とする三戸南部氏と、建武元(1334)年に陸奥国司北畠顕家の国代として赴任した南部師行が築いた根城を本拠とする根城南部氏(八戸南部氏・遠野南部氏)があり、初期は根城南部氏がその中心勢力であった。
三戸南部氏が勢力を伸ばし、南部宗家と位置付けられたのは康正年(1455-56)間、南部安信の代のことである。
南部氏は、代々聖寿寺館(本三戸城)を居城としてきたが、天文8(1539)年、南部晴政の時に家臣の放火によりこれを焼失した。
晴政はより防御力の強い居城を求め、この地に新たに三戸城を築いた。
天正10(1582)年、晴政と嫡子晴継が相ついで死去すると、南部氏は跡目をめぐり九戸実親を押す九戸政実と田子信直を押す晴政の叔父高信の勢力が対立した。
この争いは北信愛(松斎)が仲裁にあたり、、信直を南部宗家の家督とする事で決着した。これにより、信直が26代当主として三戸城へ入城した。
元亀2(1571)年に大浦為信が叛旗を翻して大仏ヶ鼻城(石川城)の南部高信を攻撃しているが南部氏はこの内訌によりみすみす津軽の地を失うという失態を冒している。
更に、天正18(1590)年の豊臣秀吉の小田原城攻めに際しても、大浦為信より一歩遅れを取り、津軽失陥が確定してしまった。
しかしながら、信直は秀吉の下に伺候して南部7郡の所領安堵の朱印状を得る事に成功し、南部氏の勢力の安泰をはかった。
翌天正19(1991)年、配下の九戸政実が、信直の家督相続に不満を持つ諸将を率いて叛乱を起し、九戸城に籠城した。
この九戸政実の乱は、豊臣秀吉の奥州仕置きを実施していた蒲生氏郷らの軍勢が、信直軍に加勢して政実を滅ぼして決着した。
信直は、この軍功によって九戸城を与えられ、これを改修して福岡城と称して居城とした。
これにより三戸城は福岡城の支城となったが、福岡城にしても所領の北辺に過ぎるとの、浅野長政の助言により、新たに盛岡城を築城し、居城を移した。
三戸城はその後御古城と称されて元和年(1615-23)間には城代が置かれていたが、貞亨年(1684-87)間には城代が廃止され、代官所が置かれており廃城とされたと考えられるが、その後も石垣の補修が実施されており、戦時における利用が企図されていたようである。
 現  況 三戸城は、南部宗家の居城として、城内に重臣の屋敷を置いた近世城郭である。
現在では本丸跡が駐車場となっており、山頂の城山公園まで車で登る事ができる。
中腹には綱御門が復元されており、できれば山麓より徒歩で登る事をお奨めする。
山頂の南部彦九郎政直邸跡には温故館として模擬天守が建てられており、南部彦八郎利康邸跡には南部氏を祀る糠部神社が鎮座している。
遺構としては、綱御門周辺の石垣・鳩御門の虎口土塁・大御門の土塁・鍛冶屋御門の石垣など、多くの遺構が残されている。
また城下の法泉寺に搦手門が、龍川寺に表門が移築されて残されている。
三戸代官所〜綱御門

三戸代官所跡

三戸代官所跡

三戸代官所跡
標柱

大手道と門住稲荷

門住稲荷

大手道

三戸城址碑

物見櫓跡標柱

物見櫓跡

物見櫓跡より
大手道を望む

自動車道脇の
石垣

自動車道脇の
石垣

綱御門・武者溜まり・鳩御門
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