帝國博物学協会
三河國
道目記城
 所在地 愛知県新城市杉山字道目記
 交通機関 JR飯田線 野田城駅下車 徒歩15分
 別  名 市々浪城・杉山古城
 略  歴 元亀元(1570)年、田峯菅沼定広の四男菅沼定氏が道目記城を築城したとされる。
定氏は、当初大野城を居城としたが、弘治2(1556)年に長兄に定継が布里合戦で討死したため、その遺領を継いで新城古城に入城した。
更に杉山端城を築城して移り住んだが、その後、武田氏の勢力・徳川氏の勢力が入り乱れて菅沼氏も武田方・徳川方に分かれた。
徳川方に就いた定氏は、この時期に新たに道目記城を築城したのであるが、田峯菅沼氏の家臣菅沼定直の子定利が、田峯城を逃れて道目記城に入城している。
元亀3(1573)年、三方原の戦いでは定氏も徳川方として参陣している。
この戦いで徳川氏を破った武田信玄は、陣を進めて三河野田城に籠る菅沼定盈を攻囲した。その際、信玄は道目記城を本営と定めて攻城戦を展開した。
天正10(1582)年、武田氏に仕えていた田峯城菅沼氏本家が武田氏の衰退によって滅亡した際には、定利がその違領を受け継いでいる。
同年、定利は信濃飯田城に移ったため、道目記城には花房左衛門八郎が城代として入城したが、天正18(1590)年、徳川家康の関東移封に従って城は廃城となった。
 現  況 城址は千郷中学校となっており、城下の大通り沿いに城址を示す標柱が立てられいる。

道目記城付近

道目記城切岸

道目記城切岸

道目記城南面
折り

道目記城址標柱

道目記城址遠望
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