帝國博物学協会
尾張國
星崎城
 所在地 愛知県名古屋市南区本星崎町本城
 交通機関 名鉄本線 本星崎駅下車 徒歩10分
 別  名 -
 略  歴 星崎城が初めて築かれたのは鎌倉期の事で、山田重忠が築城したとの伝承が残っている。
16世紀初頭には、鳴海の土豪、花井右衛門兵衛が星崎城に居城したとも伝わるが、その後、岡田助右衛門直教が入城する。
岡田氏は元来守山小幡の人で、武功によってこの城を与えられたようである。
信長・信忠が本能寺の変で横死した後、尾張は次男信雄の支配下となり、城主岡田長門守直孝は織田家家老として信雄に仕えた。
天正12(1584)年、上方で勢いを得た羽柴秀吉と対峙した信雄は、秀吉の計略に乗せられて直孝ら3人の家老を長島城で殺害してしまった。怒った弟の岡田伊勢守善同は、星崎城に篭城し、織田・徳川連合軍と戦った。
一旦は攻撃を退けたものの、援軍も無く、善同は城を明渡すに至る。
変わって城主となったのは、この戦いで奮戦した寺部城主山口重勝であったが、天正14(1586)年、重勝は養子重政に家督を譲る。
文禄4(1595)年、関白秀次事件で重勝の娘お辰も側室だった為に処刑され、重勝にも累が及び京都北野で自害したものの、重政までは累を及ぼす事は無かった。
天正16(1588)年、重政は伊勢茂福に1万5千石を与えられて移り、星崎城は廃城となった。
 現  況 城址は笠寺小学校の建つ台地上一帯である。
城址碑は校門を入り、右手奥の突き当たりに立っており、名古屋市の立てた案内板もある。
現在運動場のある一帯が本丸に当たり、校舎の立つ一帯が二之丸、道路を挟んで三之丸と、連郭式の縄張りであった。
本丸には流石に立ち入れなかったが、校門を入って左手奥には、土塁が残されており、数少ない遺構の一部と思われる。

城址碑

城址碑

城址東面切岸

二之丸
(校門側)

二之丸土塁

二之丸土塁

本丸跡

西面切岸

西面切岸
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