帝國博物学協会
三河國
上和田城
 所在地 愛知県岡崎市上和田町南屋敷
 交通機関 JR東海道本線・愛知環状鉄道 岡崎駅下車 徒歩15分
 別  名 上和田砦・大久保氏一族発跡地
 略  歴 大久保氏は旧姓宇津氏と称しており、宇都宮氏の一族であったと言われている。
宇都宮泰藤の時、南朝に属して新田義貞に従って各地で戦い、三河上和田に移り住んだで三河宇都宮氏の祖となり、上和田城を築城した。
泰藤の孫の泰道の時に宇津氏と改姓したと言われており、泰道の時に松平信光に仕えたのが、松平氏との関係の最初である。
寛政重集諸家譜には、忠茂の子忠俊の時、越前から武者修行として宇都家に滞在していた大窪藤五郎に請われて、大窪氏に改姓、後に大久保氏を苗字とした。
松平家が守山崩れで主君清康が殺害された際、桜井松平信定が反逆を起して清康の嫡男広忠は、岡崎城を追われた。大久保忠俊(常源)は、松平信孝とはかって広忠を岡崎城に帰還させた。
織田信秀が三河を攻撃した際には、大久保氏は一時的に上和田城を離れて羽根西城に退避している。
永禄6(1563)年、家康が領主としてあたった最初の苦難、三河一向一揆の時、大久保氏は一族を挙げて家康に味方し、上和田城に一向一揆勢を迎え撃っている。
大久保氏がこの地を離れたのは、天正18(1590)年、家康が関東に移封となり、大久保忠世が小田原城4万5千石に封ぜられた際である。
 現  況 城址は都市化の波によって遺構は残されていない。
上和田公民館に「大久保氏一族発跡地」の石碑が建てられ、案内板が建てられているにすぎない。
わずかに城址であったことを示しているのは、民家に立てられている「和田城用心濠跡」の石碑のみである。

大久保氏一族
発跡地石碑

大久保氏一族
発跡地案内板

大久保氏一族
発跡地石碑付近

和田城用心濠
石碑付近

和田城用心濠
石碑付近

和田城用心濠
石碑
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