帝國博物学協会
三河國
金谷城
 所在地 愛知県豊田市金谷町1丁目
 交通機関 名鉄三河線 上挙母駅下車 徒歩5分 
愛知環状鉄道 新上挙母駅下車 徒歩10分
 別  名 衣城
 略  歴 金谷城の歴史は古く、延慶元(1308)年、高橋莊地頭、中条景長が築城したと言われている。
金谷城は古くは衣城とも呼ばれており、中条氏が居城した。
中条氏6代秀章の時、明応2(1493)年、伊保城主三宅清宜、寺部城主鈴木重辰、八草城主那須惣左衛門、上野城主阿部孫次郎らと語らい、安祥城の松平宗家4代親忠と井田野で合戦に及んだ。
これが井田野合戦と呼ばれる戦いで、連合軍はこの戦いに敗れて勢力が衰微していった。
中条氏は今川氏・松平氏らとの戦いによって勢力を失い、永禄4(1562)年、三河に侵攻した織田信長の家臣佐久間信盛に追われて7代常隆は御立村の森城へ逃れて中条氏は滅亡した。
金谷城には佐久間信盛がそのまま居城し、永禄11(1568)年には子息余語久三郎正勝が城将として入城、寺部城と共に守った。
信盛が信長かの元を追放されると、勝長も所領を失ったと考えられる。
天正18(1590)年、徳川家康が関東に移封されると、岡崎城には田中吉政が入り、金谷城には城代が置かれた。
慶長6(1601)年、関ヶ原合戦の戦功で、吉政は筑後久留米城に加増転封となり、替って金谷城には熊谷大膳亮重長が入城した。
慶長9(1609)年、三宅康貞が金谷城へ入城して挙母藩が正式に立藩した。
慶長19(1614)年、康貞は新たに桜城を築城、金谷城は廃城となった。
 現  況 城址中央を名鉄三河線が貫いている。
城址は竹薮となっているものの、空掘・土塁跡等が良く残されているが、鉄道沿線のため一部立入ができないような処置が施されている。
城址碑はこの城址から少し離れた勝手神社に立てられている。

金谷城址碑

勝手神社

勝手神社前

勝手神社拝殿

城址への道

三曲輪空堀

三曲輪

ニ曲輪土塁

左一曲輪・右
三曲輪

三曲輪と二曲輪
間の空掘

三曲輪と二曲輪
間の空掘

三曲輪切岸

一曲輪櫓台

ニ曲輪

一曲輪東側

一曲輪・三曲輪
間の空掘

三曲輪

外郭空掘跡

外郭空掘跡
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