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| 所在地 | 愛知県海部郡蟹江町蟹江本町城 |
| 交通機関 |
JR関西本線 蟹江駅下車 近鉄名古屋線 蟹江駅下車 徒歩10分 |
| 別 名 | - |
| 略 歴 |
永享年(1429-1440)間、北条時任が築城したされる。 北条時任は、北条得宗家時行の孫であり、子孫は横井氏を称して赤目城に居城している。 弘治元(1555)年、岡崎城の松平広忠は、今川義元の尾張攻略の先陣として蟹江城を攻略した。 この際に勇戦した七人の武将が、蟹江七本槍(大久保忠員・忠勝・忠世・忠佐・阿部忠政・杉浦鎮貞・杉浦鎮栄)として顕彰された。 その後、蟹江城は長島城の服部友貞の支城として、織田氏に対する今川氏の拠点として機能している。 永禄3(1560)年5月、桶狭間合戦によって今川義元が討死にしたことによって、織田氏からの圧迫を受けるようになる。 永禄10(1567)年、織田氏の武将滝川一益が三重の堀を構える城郭として蟹江城を強化した。 織田信長が本能寺の変に倒れると、次男織田信雄の家臣佐久間政勝が城主として入城した。 天正12(1584)年、小牧長久手合戦に政勝が伊勢菅生城の築城のため城を離れている際に、留守居の前田与十郎が秀吉方に内応した。 秀吉方として参戦していた一益が、九鬼水軍を率いて蟹江城に入城したが、これに気付いた家康が派遣した井伊直政に包囲される事となった。 一益はこれを迎え撃って籠城したが、織田・徳川連合軍は蟹江城を猛攻、一益は前田与十郎の首を添えて降伏を申し出て認められ、7月3日に海路伊勢に退去した。 この戦いを蟹江合戦と呼称している。 蟹江城は、その翌年に発生した大地震で倒壊し、廃城となった。 |
| 現 況 |
蟹江城址は住宅地として開発されて遺構は殆ど残されていない。 住宅地の間に蟹江城址碑と本丸の井戸が残されているだけである。 |
![]() 蟹江城址碑 |
![]() 蟹江城址碑前 |
![]() 本丸井戸付近 |
![]() 本丸井戸 |
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