帝國博物学協会
三河國
刈谷城
 所在地 愛知県刈谷市城町
 交通機関 名鉄三河線 刈谷市駅下車 徒歩15分
 別  名 亀城
 略  歴  天文2(1533)年、尾張緒川城主水野忠政が、境川を挟んだ対岸三河刈谷の地に刈谷城を築いて移り住んだのがその始まりである。
これによって、水野氏の本拠は刈谷城となり、緒川城は嫡男信元に与えられその支城となった。
天文10(1541)年、忠政の娘於大は、三河岡崎城の松平広忠に嫁し、竹千代を生んでいる。ここに、後の徳川家康が誕生したのである。
天文12(1543)年、忠政が没すると嫡男信元が家督を継いだ。忠政は今川氏・松平氏との交流を深めて今川氏に属したが、信元は今川氏との交誼を絶って尾張の織田信秀に与した。
翌年、於大は松平広忠から離縁され、刈谷に戻り、椎木屋敷に留まった。
天文16(1547)年、於大は尾張阿古居城の久松俊勝に再嫁した。
桶狭間の合戦で今川義元が敗死し、徳川家康が岡崎城主として返り咲くと、信元は信長との間を仲介し、清洲同盟締結に尽力している。 また、家康が三河一向一揆で苦戦した際や、三方ヶ原合戦には、援軍として駆けつけている。
天正3(1575)年、信元は武田氏との内通を疑われ、信長の命で岡崎の大樹寺で殺害された。
替わって織田信長の家臣、佐久間信盛が刈谷城主となった。
天正8(1580)年、信盛は摂津本願寺降伏後に信長から追放され、信元の弟忠重が刈谷城主になり、水野氏が刈谷城主として返り咲いた。
天正18(1590)年、相模小田原城の北条攻めの功で、伊勢神戸城4万石に加増された。
文禄3(1594)年、忠重は再び刈谷城に城主として戻った。
慶長5(1600)年、忠重は三河池鯉鮒城において、西上する堀尾吉晴ら東軍を饗応する宴席で、石田三成に与した加賀井重望に刺殺された。
刈谷城主には嫡男勝成が入り、刈谷城3万石を継いでいる。
慶長20(1615)年、勝成は大和郡山城へ加増転封となり、替わって勝成の弟忠清が上野小幡から3万石で入封した。
寛永9(1632)年、忠清は三河吉田城に移封され、入替わりで松平(深溝)忠房が入封した。
慶安2(1649)年、忠房は丹波福知山城へ移封され、伊勢長島城から松平(久松)定政が2万石で入城した。
慶安4(1651)年、定政は剃髪し、所領を旗本救済に宛てる旨の書状を大目付に提出し、諷誡書を井伊直孝に提出したため、幕府は定政が発狂したとして改易に処し、身柄は伊予松山城主松平定行にを預けられた。
刈谷領は一旦天領となったが、同年9月、越後三条より稲垣重綱が2万3千石で入封して、再立藩された。
元禄15(1702)年、3代城主稲垣重富は、上総大多喜城へ移封され、入れ替わりで阿部正春が1万6千石で入封した。
宝永7(1710)年、阿部氏2代正鎮の時、上総佐貫藩へ移封された。
替わって越後村上城から本多忠良が5万石で入封するが、正徳2(1712)年、下総古河城へ移封となった。
替わって日向延岡城から三浦明敏が2万3千石で入城した。
延享4(1747)年、三河西尾城から土井利信が2万3千石で入封して、以後土井氏が9代に渡って刈谷を治めて明治維新を迎えた。
この間寛政2(1790)年には、3代城主土井利則の時に調達金を廻って、寛政一揆が勃発したため、領内の一部を陸奥福島藩との村替えの処罰を受けている。
この時成立したのが、重原藩である。
明治4(1871)年、土井利教の時に廃藩置県となり、刈谷城は廃城となった。
 現  況 城址は亀城公園となっており、本丸の土塁及び水濠が残されている。
本丸は、大東亜戦争の最中に高射砲陣地とされたため、周囲の土塁のかなりの部分が削り取られているが、北側の土塁が良く残されている。
城址付近は文化的な施設が建てられており、三之丸には亀城小学校の旧校舎が郷土資料館として残されている他、大手門跡や町口門跡、家康の生母於大の方が暮らした椎木屋敷等には案内板や石柱が立てられている。
椎木屋敷跡 三河岡崎城の松平広忠から離縁された徳川家康の生母於大が、久松俊勝に再嫁するまでの間一時的に住 んだといわれている。

椎木屋敷跡

椎木屋敷跡

椎木屋敷跡

椎木屋敷跡石碑

椎木屋敷跡
解説石碑

椎木屋敷跡
案内板
外郭

町口門跡碑

町口門跡

文礼館跡石碑
屋形

大手門跡石碑

大手門跡

屋形土塁

屋形跡
三之丸

三之丸跡石碑

三之丸跡

主郭
Top