|
|
|
|
|
|
||
|
|
| 所在地 | 愛知県一宮市大和町苅安賀 |
| 交通機関 | 名鉄尾西線 苅安賀駅 徒歩10分 |
| 別 名 | 浅井田宮丸城 |
| 略 歴 |
永禄4(1561)年、浅井新八郎政高によって築城されたと言われている。 「尾陽雑記」「張州府志」によると、政高は、近江の浅井亮政の子傳兵衛の子で、傳兵衛が暗殺されたため、その仇を討ちのために尾張に来た。 仇討ち後に、森氏(後の毛利氏)の娘を娶り織田家に仕えた。 政高は、元亀元(1570)年の比叡山延暦寺焼討ち、翌元亀2(1571)年の長島一向一揆攻めなどに参戦、年天正2(1574)年には、から織田信忠軍団に属し、播磨三木城攻めでは、砦を任されている。 政高の死後、子田宮丸長時後を嗣ぎ、本能寺の変で信忠が討死すると、織田家次男の信雄に仕え、三家老の一人となった。 天正12(1584)年、小牧長久手合戦の直前に、羽柴秀吉の招待を受けて大坂城を訪れ、秀吉に属する事を主君信雄に薦めた為、暗愚な主君信雄に殺害された。 浅井氏は城を追われ、信雄は、長時の殺害に功のあった、森久三郎を城主とした。 小牧・長久手の合戦では、信雄・家康軍の城として、尾張西部を固める重要な役割を負ったといわれている。 久三郎は、信雄が秀吉の勘気を被り改易されると、秀吉に仕えた。 また、その後、関ヶ原の合戦では東軍として参加、この戦いで討死しており、その頃廃城になったと考えるのが妥当であろう。 |
| 現 況 |
東西42間、南北32間の規模で内外二重堀の構えであったと言われるが、現在城址は自動車学校の敷地となっており、その傍らに城址碑がひっそりと立っている。 しかしながら、自動車学校を含む土地の南側・西南側の敷地が高くなっており、周囲が低くなっている事から考えると、低くなっている場所が堀跡ではないかと思われるが、確証はない。 |
![]() 南側の堀跡か |
![]() 南側の堀跡か |
![]() 西南側の堀跡か |
![]() 城址碑 |
![]() 城址碑前の道路 |
![]() 自動車学校 |
|
|