帝國博物学協会
尾張國
守山城
 所在地 愛知県名古屋市守山区市場
 交通機関 名鉄瀬戸線、矢田駅下車 徒歩10分
 別  名 -
 略  歴 2011/1/23記述変更
守山城は、織田方の小幡城川村城の対の城として、松平信定によって大永年間初期に築かれた。
大永6(1526)年、連歌師宗長が守山城を訪れ、千句連歌会が盛大に開催された事が、宗長手記に記されている。
その後守山城は織田方に奪われ、織田信光が城主となった。
天文4(1535)年、松平清康が尾張侵攻を企図するに至り、城主信光が内応して守山城は松平方に転じた。
清康はこれを受けて守山城に入城、更なる尾張侵攻を企てていたが、家臣阿部弥七郎に殺されてしまった。
これを世に「守山崩れ」といい、松平氏はこの後衰退することとなる。
再び織田方に転じた信光は、北方の清洲織田氏に備えた。
弘治元(1555)年、信長は信光と協力して清洲城を攻略、居城を清洲城へ移した。
これにより、信光は那古野城を譲られて城主として入城し、守山城にはその弟信次が入城した。
しかし、家臣洲賀才蔵が単騎で馬上で通った信長の弟秀孝を無礼として殺害したという事件が発生し、兄信長の怒りを恐れた信次は逐電してしまった。
守山城には家臣角田新五を中心とした信次家臣団が籠城、信長は争う事を欲しなかったが、末盛城主であった信行(信勝)は、兵を率いて守山城下に押し寄せ、城下を焼き払った。
信長は弟信時を城主とすることで城内を鎮めたが、再び争議が発生して、信時が自害させられるという事件が発生した。
これを受けて信次の帰参が認められ、再び信次が守山城主として復帰する事となった。
天正2(1574)年、伊勢長島の一向一揆攻めで信次が討死すると、守山城は廃城となった。
 現  況 城址には、宝勝寺が建てられている。
宝勝寺裏の一段高い場所が主郭であり、城址碑が建てられている。
名古屋のベッドタウンとして宅地開発が進む中、奇跡的に土塁や空掘の遺構がよく残されている。
二郭
2011/1/23追加

宝勝寺

二郭南側

二郭南側

二郭空掘

二郭北土塁

二郭北側

二郭東北側

二郭北東側

二郭南側
主郭
2011/1/23追加

主郭南側空堀

主郭南側空堀

主郭南側空堀

主郭南側空堀

主郭南側空堀

主郭南側空堀

主郭南側空堀

主郭南側空堀

主郭北面

主郭北東角

主郭北東角

守山城址案内
標識

主郭南東角

主郭

主郭

主郭

主郭

守山城址碑

主郭からの眺望

守山城址碑

本丸空掘

空掘

土塁

城址碑付近

宝勝寺側土塁

空掘
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