帝國博物学協会
尾張國
村木砦
 所在地 愛知県知多郡東浦町森岡字取出
 交通機関 JR武豊線 尾張森岡駅下車 徒歩10分
 別  名 -
 略  歴 天文22(1553)年、尾張の織田信秀の死去すると、織田家の当主は嫡男信長に引き継がれた。
今川家との国境地帯を本拠とする家臣は動揺を隠す事ができず、鳴海城の山口教継が織田家を離反して今川氏に走り、その調略で大高城沓掛城が今川方に転じた。
更に義元は尾張への進出の鍵となる水野氏に圧力を掛けるため、重原城に山岡河内守を攻めて奪取した。
石川新左衛門率いる松平勢を中心とする今川軍は、闇夜に村木の地に上陸して砦を構築した。
緒川城の水野信元が気付いて兵を差し向けた時には、既に砦はほぼ完成しており、散々に撃退された。
信元は急使を清洲城の信長に送り、村木砦奪回を訴えた。
天文23(1554)年1月21日、信長は清洲城の留守居を舅の斎藤道三に任せると、ほぼ全軍を率いて知多半島西岸に上陸すると緒川城に入城し、村木砦の攻略に着手した。
信長は砦の南西の天王社を本陣と定め、西方の搦手に織田信光を、東の大手に水野信元を配し、信長本軍は南の大堀より攻め掛かったが、今川方の守備が堅く死傷者が後を絶たなかった。
織田軍はこの戦いで初めて鉄砲を実戦に使用したと言われている。
夕刻になって砦の城将松平義春は降伏した。織田軍は1500の軍勢の3割の400を失ったと言われ、砦を奪取したとはいえ被害の大きさに驚いたといわれている。
砦は水野氏の家老清水家重に与えられた。
 現  況 砦址は八剣神社境内となっている。八剣神社は清水家重・岡政晴が村木砦合戦で戦死した将兵を弔うために建立されたものである。
村木砦の東側をJR武豊線が縦断しており、砦は東西に分離されている。

村木砦南東側

村木砦北東側

北東角

入江部分

入江部分

北側切岸

北側堀跡

砦南側

八剣神社境内

神社南東側

八剣神社境内

村木砦址碑

武豊線と砦東側

村木砦合戦
説明版
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