帝國博物学協会
三河國
岡崎城
 所在地 愛知県岡崎市康生町
 交通機関 名鉄名古屋本線 岡崎公園前駅下車・愛知環状鉄道中岡崎駅下車 徒歩15分
 別  名 龍城・龍ヶ城
 略  歴 享徳元(1452)年、三河守護代の西郷稠頼が築城、康正元(1455)年に完成したと言われている。
大永4(1524)年、松平清康は岡崎城を攻略、三河統一をめざす松平氏の居城して安祥城より移り、城の拡張・整備などを行なった。
2008/2/15加筆 これにより、西郷氏は大草城に退き、後に大草松平家となった。
天文11(1542)年、松平竹千代(後の徳川家康)が城内で誕生したが、織田氏・今川氏の人質として少年時代をこの城で過ごすことはできなかった。
永禄3(1560)年、桶狭間の合戦で、今川義元が戦死したことにより、今川氏より独立し岡崎城主として入城した。
元亀元(1570)年、家康は遠江浜松城に居城を移し、嫡男信康が岡崎城主となったが、武田氏との内通を疑われて天正7(1579)年に信康が自刃した。
その後、石川数正・本多重次が城代として入城した。
天正18(1580)年、小田原の陣が終わり家康が関東に移封すると、代わって田中吉政が城主として入城した。
2008/2/15加筆 吉政は岡崎城を再拡張し、田中堀を掘って城下町を取り込む総構えを構築し、東海道を総構え内部に取り込んだ。
本丸には天守を築造し、現在見られる規模に拡大している。
関ヶ原合戦で吉政が筑後久留米城に加増・転封となると、慶長6(1601)年、徳川譜代大名の本多康重が、上野白井城より50000石で入城した。
本多氏は4代に渡って治めたが、正保2(1645)年、遠州横須賀城に転封となり、代って三河吉田城より水野忠善が入封した。
水野氏は7代117年にも渡って岡崎を治め、宝暦12(1762)年忠任が肥前唐津城に転封となった。
代って同年に下総古河城から松平康福が入城したが、7年の短期政権で、明和6(1769)年に石見浜田城へ転封となった。
入替わりで、石見浜田城から松平康福が入城した。本多氏は6代102年に渡って岡崎を治め、忠直の時に明治維新を迎える。
 現  況 「五万石でも岡崎様はお城下まで舟が着く」と歌われた岡崎城址は、現在岡崎公園として開放されている。
城内には昭和34年に天守及び付櫓・井戸櫓・二之丸大手門が再建されている。また、石垣・水濠が良好な状態で残されている。
本丸には龍城神社が置かれているが、主郭部は比較的良好な状態で残されている。現在整備計画に基づいて、歴史公園として整備中である。
稗田曲輪 <2008/2/15追加>
慶安2(1649)年、三河代官鳥山牛之助の出資によって建てられた城米蔵があった。この蔵は、幕府の兵糧米である城詰米を備蓄するものであった。

稗田門跡付近

稗田曲輪跡
北曲輪 <2008/2/15追加>

北曲輪跡付近

北曲輪跡付近
浄瑠璃曲輪 <2008/2/15追加>
浄瑠璃姫伝説(源義経と浄瑠璃姫の悲恋伝説)で知られる浄瑠璃薬師堂(光明院安西寺)が置かれた曲輪である。同寺は元来持仏堂曲輪にあったが、家康の祖父、松平清康によって浄瑠璃曲輪の地へ移され、正保4(1647)年、藩主水野忠善によって庫裏を召し上げられ、現在地に移された。

大手門脇土塁(?)

大手門脇土塁(?)

浄瑠璃寺
備前曲輪 <2008/2/15追加>
後の関東郡代伊奈備前守忠次の屋敷があったことに由来すると言われている。藩政期には、家老職の屋敷が置かれていた。

備前曲輪付近

備前曲輪付近

備前曲輪付近
三之丸 <2008/2/15追加>
藩政期には、重臣の屋敷が置かれていた。

三之丸跡付近

浄瑠璃姫の墓

三之丸南端

三之丸石塁

三之丸切岸
東之丸 <2008/2/15追加>

切通し

切通し石垣

東之丸南西角
石塁

東之丸南側石塁

東之丸南側石塁

東之丸南面

東之丸跡
(現駐車場)
菅生曲輪 <2008/2/15追加>

菅生門跡付近

菅生曲輪東堀跡

菅生曲輪東堀跡

黒門跡付近
<2009/7/22追加>

南面石垣

南面石垣

南面石垣

南面石垣
菅生曲輪西
帯曲輪
<2008/2/15追加>

帯曲輪(北面)

五万石ふじ

帯曲輪

帯曲輪

帯曲輪

帯曲輪

内郭
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