帝國博物学協会
三河國
挙母城(桜城)
 所在地 愛知県豊田市元城町1丁目
 交通機関 名鉄三河線 豊田駅下車 徒歩10分 
愛知環状鉄道 新豊田駅下車 徒歩15分
 別  名 佐久良城・衣城
 略  歴 慶長4(1604)年、伊勢亀山城城番を務めていた三宅康貞が、関ヶ原合戦の戦功で5000石の加増を受けて10000石となり、大名に列された。
慶長9(1609)年、康貞は金谷城へ入城して挙母藩が正式に立藩した。
慶長19(1614)年、康貞は金谷城を廃して新たに桜城の築城を開始した。
康貞は城の内外に多くの桜の木を植えたため、新城は桜城と呼ばれた。
元和5(1619)年、2代康信が2000石の加増を受けて、伊勢亀山城に転封となり、挙母領は天領となった。
寛永13(1636)年、3代康盛が亀山城から再び12000石で復帰した。
寛文4(1664)年、4代康勝が三河田原城へ転封となり、桜城は廃城となった。
天和元(1681)年、陸奥国石川藩より本多忠利が10000石で入封し、廃された桜城の跡に陣屋を置いてこの地を治めた。
本多氏は3代に渡りこの地を治めたが、その間に衣を挙母と改めている。
寛延2(1749)年、本多氏3代忠央は遠江相良陣屋に転封となり、替わって上野安中城から20000石で内藤政苗が入封した。
政苗は幕府より4000両を拝領して築城許可を得、桜城の再興を図ったが、矢作川の水害を度々被ったため、工事は遅々として進まなかった。
安永8(1779)年、2代藩主学文は桜城の再興を断念して新たに城地を求め、童子山に新城の築城を幕府に願い出て許可を得た。
天明2(1782)年から築城工事は開始され、天明5(1785)年に挙母城(七州城)が完成すると、桜城は廃城となった。
 現  況 城址は桜城址公園となっており、公園の隅に隅櫓の櫓台石垣だけが残されている。
この石垣は、四周とも石垣になっており、隅櫓というよりは天守台のような趣を感じさせるが、石垣上に登る術はない。
桜城址は豊田市の中心部にあるため、この櫓台以外の遺構は完全に失われている。
櫓台だけがよくぞ残ったものと感心させられる。

城址碑と櫓台
石垣

案内板と櫓台
石垣

櫓台石垣
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