帝國博物学協会
三河國
重原城
 所在地 愛知県知立市上重原町本郷
 交通機関 名鉄三河線 重原駅下車 徒歩5分
 別  名 -
 略  歴 重原城の築城時期は明確ではないが、本郷地区が平安期の重原荘の中心であったと言われており、守護・地頭の居館があったと考えられている。
重原城が城郭として整備されたのは、16世紀前半に刈谷城の水野氏が今川・松平氏の勢力への防御拠点として改修した時であった。
天文17(1548)年、城主島津政兼が今川方に就いたため、尾張の織田信秀は重原城を攻撃して奪取している。
信秀は家臣荒川新八郎を守将として配したため、今川方の松平広忠にこの城は攻撃されている。
翌天文18(1549)年、今川氏の軍師とも言われる太原雪斎が安祥城を攻略すると、織田氏の拠点城郭として重原城の重要性が増した。
天文23(1554)年に織田信秀が没すると、今川氏は三河に打ち込まれた棘である重原城を取り除くため、山岡河内守(伝五郎)の守るこの城に押し寄せた。
山岡氏は今川方の攻撃を寡兵で迎え撃ったが、衆寡敵せず重原城は落城した。
この攻撃の際に、仁王のような大男が現れて敵の矢面に立った。これは城主山岡河内守が日頃信心していた権現石が姿を変えて城を守ろうとしたものであり、河内守はその隙に城を落ちたと伝えられている。
今川氏は重原城を尾張侵攻の拠点城郭として整備し、村木砦構築の資材はこの城を経由して送られたと言われている。
永禄3(1560)年、桶狭間合戦によって今川義元が討たれると、重原城は水野信元によって奪回されていたようで、『水野勝成覚書』には同年6月18日に、徳川家康が重原城を攻めたと記載されている。
重原城が廃城になったのは、清洲同盟が成立して、織田氏と徳川氏の間での騒乱がなくなった永禄5(1562)年頃であろう。
 現  況 上重原町公民館横の川端に、城址碑と説明板が設置されている。
実際の城址主郭は、城址碑が立てられている場所ではなく、公民館の裏手の私有地である。
ここには見事なL字型の土塁と空掘が残されている。空掘は竹薮が酷くて中に入る事ができなかったが、土塁は高いところで2mに近い高さを残している。
大手脇には権現石を祀る祠が建てられており、案内板が立てられているが、「重原城は、その後再建されることなく」と記されているが、上記の歴史から考えてこの記述は正しくないと考えられる。

重原城遠望

重原城跡碑

重原城跡碑

西側土塁

西側土塁

西側土塁

西側空掘

西側土塁

郭内

郭内

大手脇

権現石祠
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