帝國博物学協会
三河國
新城古城
 所在地 愛知県新城市石田字万福
 交通機関 JR飯田線 新城駅下車 徒歩15分
 別  名 石田新城・石田の新城
 略  歴 天文元(1532)年、大谷城主の菅沼定継がこの地に新たに築城したのが新城古城で、当時は石田の新城と称されていた。
定継は、その後菅沼本家を継いで田峯城に入城すると、織田方に与して今川氏と対立した。
弘治2(1556)年、定継は今川義元の軍勢に攻められて布里合戦で滅ぶと、石田新城には定継の弟で今川方に就いた定氏が入城した。
永禄3(1560)年、今川義元が桶狭間で織田信長に討たれると、岡崎城に松平元康が入城して、三河の諸将を糾合していった。
永禄4(1561)年、今川氏真は相次ぐ諸将の離反を止めるため吉田城の小原鎮実に野田城の菅沼定盈を攻めさせた。
定盈は鎮実の猛攻に耐え切れず、野田城を開城して撤退した。
しかし、翌永禄5(1562)年、定盈は遠江の堀江氏延の叛乱鎮圧に鎮実が出向いた隙に野田城を奪回した。
今川氏の襲来を予想した定氏は、菅沼定勝の応援を得て攻め寄せてくる今川勢を迎え撃った。
野田城からの撤退途上にある今川勢の物見が、石田の伝寿山に現れたとの報を受けて、定勝は城から兵を出して伝寿山に伏せた。
何も知らない今川勢が現れると、定勝はこれに奇襲をかけ、今川勢の鈴木甚平、松井兵右衛門らを討ち取った。
混乱する今川勢は、更に定氏率いる軍勢の攻撃を受けて、稲垣十郎左衛門、倉川弥太郎らが討たれて、ほうほうの態で退いていった。
定氏は、その後杉山端城を築城して移り住んだため、この城は廃されたと考えられる。
 現  況 天正4(1576)年に奥平信昌が築いた新城城と区別するため新城古城と呼ばれている。
城址は千民家や畑、山林になっている。
民家脇には城址を示す標柱が立てられており、標柱の後ろ側が若干低くなっていることから、堀の跡ではないかと思われる。
また、周囲には土塁と思われる高まりも散見される。

新城古城跡標柱

標柱裏の堀跡

標柱付近

土塁?

新城古城址

新城古城址
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