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豊橋の史跡と文化財(豊橋市教育委員会編)より
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| 所在地 | 愛知県豊橋市今橋町 |
| 交通機関 | JR・名鉄名古屋本線 豊橋駅下車 市電 市役所前下車 徒歩5分 |
| 別 名 | 今橋城・豊橋城 |
| 略 歴 |
永正2(1505)年、駿河の今川氏親の命によって牧野古白が築いた今橋城が吉田城の始まりである。この城は、西三河の松平氏に備えるために築かれたと思われる。 牧野氏以後、今橋城は境目の城として今川・松平の両軍によって争奪が繰り返された。 永正15(1518)年、牧野古白の子、成三・信成が今橋城を奪回すると、数年後に吉田城と改名したと言われている。 その後再び、戸田・松平・今川各氏による争奪が繰り返されたが、永禄7(1564)年、徳川家康によって攻略され、酒井忠次が城代として入城、拡張したとされる。 元亀2(1571)年、武田信玄によって攻撃を受けているが、落城する事はなかった。 天正18(1590)年、小田原の陣が終わり家康が関東に移封すると、池田輝政が城主として入城した。吉田城はこの時更に拡張され、外郭などが作られたと言われている。 慶長5(1600)年、関ヶ原合戦の論功行賞で池田氏は播磨姫路城に加増転封となった。 翌慶長6(1601)年、武蔵雉岡城から松平(竹谷)家清が3万石で入封した。 松平氏は2代忠清が慶長17(1612)年に没して、嗣子が無かったため改易となった。 同年、替わって三河深溝城から松平(深溝)忠利が入城した。寛永9(1632)年、2代忠房が三河刈谷城に転封となった。 入れ替わる形で水野忠清が入城したが、10年後の寛永19(1642)年に信濃松本城に転封となった。 替わって駿河田中城より水野忠善が入城したが、正保2(1645)年、三河岡崎城に移封となった。 次に豊後杵築城から小笠原忠知が入封した。小笠原氏は4代に渡り居城し、元禄10(1697)年、4代長重の時に武蔵岩槻城に移封された。 替わって丹波亀山城から久世重之が入封したが、宝永2(1705)年に下総関宿城に移封となった。 入替わりで牧野成春が入封した。正徳2(1712)年、牧野氏2代成央は幼少であったため、日向延岡城に転封となった。 替わって下総古河城より、松平(大河内)信祝が7万石で入城したが、享保14(1729)年、遠江浜松城に転封となり、入れ替わりで松平(本庄)資訓が入封した。 寛延2(1749)年、資訓が京都所司代に任じられたため、再び遠江浜松城に転封となり、再び入れ替わるりで松平(大河内)信復が7万石で入封した。 以後松平氏が7代に渡って居城し、7代信古の時に明治維新を迎える事となった。 この間、3〜8万石の禄高であったため、広大な城の維持すらままならなかったと言われている。 |
| 現 況 |
城址本丸は、石垣・土塁などが非常に良好な状況で残されている。本丸には、鉄櫓跡に入道櫓を模した模擬櫓が建てられている。 二之丸の堀・土塁はほとんどが破壊されており、わずかに着到櫓台・評定櫓から東側の土塁がが残されているにすぎない。 三之丸については、東側は良好に残されているが、西側は市役所・NHKなどになっており破壊されている。 |
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![]() 三之丸口門跡 西側土塁 |
![]() 三之丸口門跡 |
![]() 三之丸口門跡 |
![]() 南側土塁 |
![]() 南東角土塁 |
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![]() 川毛口門跡 |
![]() 川毛口門南土塁 |
![]() 川毛口門北土塁 |
![]() 北側川沿石垣 |
![]() 東北側空掘 |
![]() 東側空掘 |
![]() 東側空掘 |
![]() 東側空掘と土塁 |
![]() 東側空掘と土塁 |
![]() 東側空掘と土塁 |
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![]() 二之丸口門跡 |
![]() 着到櫓櫓台 |
![]() 評定櫓跡 |
![]() 東南角土塁 |
![]() 二之丸御殿跡 |
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![]() 北側土塁 (内側) |
![]() 東北角土塁 |
![]() 東側空掘 |
![]() 東側空掘 |
![]() 北側空掘 |
![]() 東側空掘 と土塁 |
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![]() 金柑丸 |
![]() 金柑丸 |
![]() 金柑門跡 |
![]() 金柑丸東側 土塁と空掘 |
![]() 金柑丸東側 土塁と空掘 |
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![]() 腰郭と北御多門跡 |
![]() 腰郭と本丸石垣 |
![]() 腰郭と本丸石垣 |
![]() 川手櫓跡 |
![]() 川手門跡 |
![]() 川手櫓櫓台 石垣 |
![]() 腰郭石垣 |
![]() 本 丸 |
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