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| 所在地 | 兵庫県尼崎市南城内 |
| 交通機関 | 阪神電鉄 尼崎駅下車 徒歩10分 |
| 別 名 | 琴浦城・尼丘城 |
| 略 歴 |
応仁の乱の東軍の大将、細川勝元の子、細川高国は、兄弟の澄元と家督を廻る争いが絶えず、大永6(1526)年、澄元を破った高国がこの地に築城し、従兄弟の細川尹賢に守らせた。 これが尼崎城の始まりと言われている。往時は現在の尼崎城より北東に位置していたとされ、大物城とも呼ばれた。 細川氏が摂津から勢力を失うと有岡城の荒木村重が勢力を伸張し、天正期には尼崎城を支城化し、嫡男村次が入城している。 天正6(1578)年、村重は突如主君織田信長に叛旗を翻し、毛利方に転じた。村重は有岡城に籠城し、毛利・本願寺などの援軍を待ったが、援軍は来ず、妻子・家臣を残して有岡城から逐電し、この尼崎城を経由して落ち延びたと伝わっている。 その後、池田輝政・三次秀次が入城、豊臣秀吉が大坂城に入城すると、尼崎は直轄領とされ、代官として建部高光が入城している。 元和元(1615)年、大阪の陣では徳川方として功績のあった武部政長は、正式に尼崎一万石の大名に取り立てられたが、翌2年、播磨林田に転封となった。 代わって翌3年には、近江膳所城から戸田氏鉄が尼崎5万石で入封し、幕命によって尼崎城を拡張した。 寛永12(1635)年氏鉄は美濃大垣城へ転封となり、青山幸成が遠江掛川城から5万石で入城した。 青山氏は4代幸秀の時、正徳元(1711)年に信濃飯山城へ転封となり、松平(桜井)忠喬が遠江掛川城から4万8千石で入封し、7代忠興の時に明治維新を迎える。 |
| 現 況 |
城址は近世城郭には珍しく、完全に破却され、遺構は何一つ残っていない。 強いてあげれば、城址公園北側の道路の南端が、かつての外堀外壁にあたる。 尼崎城の本丸は、現在の明城小学校・城内中学校の位置にあたり、小学校南側の塀沿いに城址碑が建っている。 また小学校内には、ミニチュアで尼崎城天守が再現されている。 城内中学の車寄せの築山には、尼崎城天守跡の碑が建てられており、この位置に天守があったことを示している。 本丸から北西の図書館から尼崎城址公園にかけて、石垣と土塀が模擬再現されている。 また、桜井神社には尼崎城の天守にあった瓦が保存されている。 |
![]() 図書館脇の模擬 石垣と土塀 |
![]() 図書館脇の模擬 石垣と土塀 |
![]() 尼崎城址公園 |
![]() 城址公園の模擬塀 |
![]() 城址公園の 模擬石垣と土塀 |
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![]() 城址公園の 模擬石垣と土塀 |
![]() 桜井神社裏の 尼崎城址碑 |
![]() 桜井神社拝殿 |
![]() 尼崎城の瓦 |
![]() 三之丸公園 |
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![]() 尼崎城址碑 |
![]() 城址碑付近 |
![]() 明城小学校 (本丸跡) |
![]() ミニチュア 尼崎城 |
![]() 本丸天守付近 |
![]() 尼崎城天守跡碑 |
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