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| 所在地 | 兵庫県伊丹市伊丹2丁目 有岡公園内 |
| 交通機関 | JR福知山線 伊丹駅下車 徒歩1分 |
| 別 名 | 有岡城 |
| 略 歴 |
伊丹城は、南北朝の頃に伊丹氏によって築城されたと考えられる。 文和2(1353)年、幕府に提出された「森本基長軍忠状」に「南朝方が直接伊丹城を攻撃して来たが、辛うじて守りきった」とあり、この頃には既に城として存在していた。 伊丹氏は、藤原利仁流右馬允親俊の孫、伊丹左衛門尉親元を祖とする摂津の国人で、「京都東寺百合文書」には、伊丹四郎左衛門尉好智という名が記されている。 伊丹氏の活躍が、文献上で確認できるのは、正和4(1315)年の伊丹三郎左衛門尉親盛注進状が最初である。 伊丹城が、居館城から本格的な城郭として整備されたのは、文明4(1472)年のことであり、伊丹但馬守の手によるものであった。この時、本邦初の天守台が築かれたといわれている。 戦国期の入ると、伊丹氏の主家細川家に内訌が勃発した。摂津国主であった伊丹大和守元扶は、細川高国を擁立して勢力を伸ばした。 永正8(1511)年、高国から阿波に追われた細川澄元が、勢力を整えて上京、不利となった高国が伊丹城を捨てて京都に逃げたため、永正16(1519)年に伊丹城は落城、伊丹但馬守らが天守で自害した。 伊丹城には、その後細川澄元が入城した。しかしながら、高国方は、即刻近江の佐々木氏の助力を受け、再度上洛を果たし、これに乗じて伊丹大和守国扶、伊丹伊勢守らが澄元の籠る伊丹城を攻撃、奪回している。 大永7(1526)年、三好元長が澄元の子義晴を戴いて上洛をはかり、伊丹城を攻めているが、城は落ちなかった。 亨禄元(1528)年、細川高国の家臣柳本賢治が、高国・三好元長らを近江へ追うことに成功して勢力を伸ばすと、伊丹城攻めを開始、不意を衝かれた伊丹元扶は討死し、伊丹城は落城した。 しかしながら、翌年、賢治が暗殺されると、伊丹氏は勢力を盛り返し、遂に伊丹城を奪還するに至った。 天文18(1549)年、伊丹大和守次郎親興が城主となると、細川晴元と手を結んで、三好長慶に対抗した。しかしながら、晴元が戦いに敗れたため、摂津の豪族は雪崩をうって長慶に味方したが、親興は頑なに寝返らなかったため、長慶の攻撃を受ける事となった。 伊丹城はその防御力の高さを遺憾なく発揮し、三好勢の猛攻に耐えている。 永録11(1568)年、織田信長が足利義昭を奉じて入京すると、親興は信長に降参し、和田惟政・池田勝正らと共に、摂津三守護に任じられた。 この頃が、伊丹氏絶頂の時であるが、元亀4(1573)年、将軍義昭と信長の対立が決定的になると、義昭に味方して、信長のもとを離れた。 天正2(1574)年、信長は、池田城の荒木村重に命じて伊丹城を攻略させた。 親興は抵抗したが、遂に落城し、伊丹氏は滅亡した。 伊丹城はこの功によって荒木村重に与えられた。村重は伊丹城の改造に着手、岸の砦・上臈塚砦・鵯塚砦の3砦と主郭を結ぶ範囲を城内に取り込む、総構えを完成させると共に、城の名を有岡城と改めた。 その後、村重は各地に従軍して戦功をあげるが、天正6(1578)年、石山本願寺と戦い続ける信長と、多くの門徒家臣の間に挟まれて板ばさみになっていた村重は、信長から謀叛の嫌疑をかけられたことをきっかけとして、信長に叛旗を翻して有岡城に籠城した。 信長は、村重に叛乱を思い留まらせるべく、様々な手を打ってきた。黒田官兵衛孝高が有岡城に幽閉されたのも、この時である。 村重が叛意を覆さないと知った信長は、烈火の如く怒り、有岡城を攻撃した。籠城10ヶ月、今は毛利からの援軍だけが頼りと、村重は有岡城を脱出、嫡男新五郎村次の籠る尼崎城へ向かった。 主を失った有岡城は、織田軍の猛攻を受けて陥落、残されていた村重の妻子以下1200余名は全員殺害された。 一方村重は、尼崎城から花隈城を経て、毛利氏を頼って落ち延びた。 信長は、池田之助に有岡城を与えた。之助は名称を有岡城から伊丹城に戻したが、整備する間もなく天正11(1582)年美濃に転封となり、伊丹城は廃城となった。 |
| 現 況 |
伊丹城は、伊丹市の中心部をすっぽりと含む総構えを持ち、その主郭はJR伊丹駅を含む範囲であった。 伊丹駅前にはの有岡公園として残された主郭部があり、土塁や野面積みの石垣・井戸・礎石建物の跡などが発掘され整備されている。 また、北から東にかけての空掘跡も、明瞭に見ることができる。 伊丹城には北・西・南に岸の砦・上臈塚砦・鵯塚砦という子塞が置かれていたが、北の岸の砦は、よく遺構を残している。 西の上臈塚砦は、既に市街地化して遺構は確認できない。また、南の鵯砦は私有地であり、マンションに阻まれているため、確認出来なかった。 総構えの遺構は、市内各地に残されており、特に南から東にかけては、城内側と城外側で数メートルの段差があり、その下を堀跡の水路が廻っている。 |
![]() 有岡城址案内板 |
![]() 主郭土塁 |
![]() 模擬石垣 |
![]() 有岡城址碑 |
![]() 主郭郭内 (有岡公園) |
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![]() 有岡城址案内 石板 |
![]() 井戸跡と 礎石建物跡 |
![]() 石垣 |
![]() 西側土塁 |
![]() 井戸跡 |
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![]() 櫓台土塁 |
![]() 櫓台土塁 |
![]() 櫓台土塁 |
![]() 西側土塁上 |
![]() 西側土塁 |
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![]() 西側土塁と 空掘跡 |
![]() 西側土塁 |
![]() 空掘跡 |
![]() 西側土塁 |
![]() 櫓台土塁 |
![]() 西側土塁と 空掘跡 |
![]() 北側土塁 |
![]() 忠魂碑 |
![]() 駅より忠魂碑 を望む |
| 総構え |
![]() 総構え跡 |
![]() 総構え跡 |
![]() 総構え跡 |
![]() 総構え跡 |
![]() 岸の砦 |
![]() 上臈塚砦 |
![]() 鵯塚砦 |
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