帝國博物学協会
和泉國
岸和田城
 所在地 大阪府岸和田市野田町岸城町9-1
 交通機関 南海本線 蛸地蔵駅下車 徒歩10分
 別  名 猪伏山城・蟄亀利城・千亀利城
 略  歴 元亀〜天正の頃、松浦肥後守が岸和田古城からこの地に新城を築城したのが、岸和田城の始まりである。
織田信長が上洛すると、和泉の諸将も信長に従った。
天正11(1583)年、大坂城の南の守りとして、岸和田城に中村一氏を3万石で封じた。
天正13(1585)年、 紀州根来寺との戦いが本格化すると、岸和田はその前線として重要な役割を果たした。
この戦功によって、同年一氏は近江水口岡山城6万石に移り、替わって小出秀政が4千石で入城した。
天正15(1587)年、秀政は6千石加増とされ、都合1万石の大名に列せられた。秀政はこれを期に岸和田城を拡張整備し、文禄4(1595)年には5重の天守を建築した。
元和5(1619)年、小出氏3代吉英は但馬出石城に転封となり、替わって丹波篠山城から松平(松井)康重が5万石で入城した。
康重の時に城下町の整備がはかられ、汐入門が設けられて、城内と城外を区画した。
寛永17(1640)年、松平康重の子康映が播磨山崎へ転封となり、替わって摂津高槻城より岡部宣勝が6万石で入封した。
岸和田城の使命は、紀州に対する備えであり、和歌山城に徳川御三家紀伊大納言家が入った後になっても変わることはなかった。
宣勝は外曲輪などを構築し、岸和田城の最終形態が成立した。
文政10(1827)年、天守は落雷によって焼失し、以後再建されなかった。
岡部氏は13代に渡って岸和田を治め、長職の時に明治維新を迎えた。
 現  況 城址には昭和29(1954)年に図書館として三層の模擬天守と付け櫓が建てられ、昭和44(1569)年には本丸大手門と二重櫓・多聞櫓が再建された。
更に近年二之丸にトイレとして平櫓が建てられている。
本丸・二之丸の石垣・堀は完存しており、三之曲輪北側の石垣に付いても、比較的良く残されている。
また、町割の中にも虎口のクランクが残っていたりなど、町の中にもそこかしこに城下町時代の遺構が残っている。
町曲輪

伝馬口門跡

伝馬口門跡

町曲輪折れ

東汐入門跡

西汐入門跡
三之曲輪

台地下から
台地上を望む

松平康重墓

三之丸稲荷

三之丸稲荷境内

三之丸稲荷本殿

南大手門跡

こなから坂

北口門脇石垣

北側石垣

北側石垣

北側石垣

かむろ坂

北口門
二之曲輪

稲荷口門跡

南二之曲輪北
櫓台

南二之曲輪北
櫓台石垣

岸和田城址碑

北ニ之曲輪
北面石垣

極楽橋付近
石垣
馬出

あぶみ堀跡

馬出跡

主郭部
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