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| 所在地 | 大阪府高槻市城内町 |
| 交通機関 | 阪急電鉄京都線 高槻市駅下車 徒歩10分 |
| 別 名 | - |
| 略 歴 |
この城がいつ築かれたかは不明ですが、入江左近将監春則が居城した14世紀後半頃から歴史上に登場する。 入江氏は足利義昭・織田信長に降伏し、その地位を認められていたが、永禄12(1569)年に三好氏が攻め上るとこれに味方したため城主入江景春は殺され、代わって和田惟政が城主になった。しかし翌元亀元年(1570)、惟政は白井河原で戦死した。 その後を継いだ惟長は、家臣高山飛騨守父子に追放され、あらためて高山右近が城主となった。 右近は天正13(1585)年、播磨船上城に転封となり、豊臣氏の直轄領に組み込まれた。 文禄4(1595)年、新庄直頼が、大和宇多城主より3万石で入城したが、関ヶ原の戦いで西軍に属したため改易となり、高槻城は徳川氏直轄領に組み込まれた。 大阪の陣で豊臣氏が滅亡すると、元和元(1615)年、内藤信正が近江長浜城から3万6千石で入城した。 信正は元和3(1617)年に山城伏見城代となったため、下総守谷より土岐定義が2万石で入城した。 元和5(1619)年、定義が死去すると、嫡子頼行が幼少であったため、再び下総守谷に移封となった。 替わって三河形原城より松平(形原)家信が2万石で入封するが、寛永12(1635)年に下総佐倉城へ転封となった。 高槻城には播磨龍野城から岡部宣勝が5万1千石で入封した。 寛永17(1640)年、宣勝は和泉岸和田城へ転封となり、下総佐倉城から松平(形原)康信が3万6千石で復帰した。 慶安2(1649)年、康信は丹波篠山城へ転封となり、替わって永井直清が山城勝龍寺城より3万6千石で入城した。 永井氏は13代に渡って高槻を治め、13代直諒の時に明治維新を迎えた。 |
| 現 況 | 城址には城址碑・一部土塁・残石などが残されているにすぎず、城の遺構を確認することができない。建造物としては高麗門が本行寺に・唐門が野見神社に移築されている。 |
![]() 二之丸土塁 残 土 |
![]() 野見神社唐門 |
![]() 厩廓桝形門 石 垣 |
![]() 高槻城址碑 |
![]() 本丸石垣残石 |
![]() 三之丸跡 |
![]() 東大手門跡 |
![]() 移築高麗門 |
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