帝國博物学協会
下総國
古河城
 所在地 茨城県古河市中央町 ほか
 交通機関 JR宇都宮線 古河駅下車 徒歩20分
 別  名 蛤城
 略  歴 治承4(1180)年頃といわれているが、下河辺行平が古河の地に館を築いたのが、古河城の創築と伝えられている。
南北朝期の永徳2(1382)[弘和2]年、下河辺氏は朝行の時に下野小山氏館の小山小四郎に攻められて、古河を追われた。
小山氏は古河城に家臣野田右馬助を封じたが永享12(1440)年に結城合戦が始まると、上杉氏の大軍に怯えて逃亡、替わって翌嘉吉元(1441)には矢部大炊助が城主として入城した。
大炊助は上杉軍に徹底抗戦したが、同年結城城が上杉軍に攻略され、上杉軍の主力が古河城に集結すると、暗夜に乗じて撤退したと言われている。
宝徳元(1449)年、永享の乱で自害した足利持氏の子成氏が鎌倉公方に就いた。成氏は管領山内上杉憲忠を享徳3(1454)年に攻めて殺害し、父の無念を晴らしたが、却って上杉氏と対立することとなった。
更に成氏は足利将軍とも対立したため、康正元(1455)年、両軍に攻められて鎌倉を追われ、古河公方館に居を移した。これ以後古河公方を称するようになった。
成氏は、対上杉氏の拠点として、新たに渡良瀬川と沼に囲まれた要害の地である古河城を修築して居城を移した。
幕府は新たな鎌倉公方として足利政知を送り込んだ。政知は伊豆堀越の地に堀越御所を築いて堀越公方を称した。
文明3(1471)年、成氏は足利政知征伐のために軍を送り込んだが、今川・上杉の援兵によって却って古河城を追われることとなった。
成氏は一旦千葉孝胤を頼って落ち延びたが、支援する諸勢力を糾合して翌4年には古河城を奪還した。
文明8(1476)年、武蔵鉢形城に拠って長尾景春が上杉氏に反乱し、長尾景春の乱が勃発すると、山内・扇谷両上杉氏が共同して乱の鎮圧をはかった。
古河公方は長尾景春を支援したて上杉氏と対立し、五十子陣にて上杉軍を景春・古河公方軍が上杉氏を撃破した。
扇谷上杉氏の家宰太田道灌は、景春方の鉢形城を始め、武蔵石神井城平塚城に豊島氏を攻めて滅亡させた。
文明14(1482)年、成氏は幕府と和睦(都鄙合体)して、成氏が関東公方であると認められた。
文明18(1486)年、道灌が糟谷館で主君上杉定正に暗殺されると、管領山内上杉氏と扇谷上杉氏の間に内乱(長享の乱)が勃発、2代古河公方足利政氏は山内上杉氏に強力して戦ったが、両上杉氏の勢力は次第に勢力を失っていった。
替わって北条氏が小田原城を本拠に勢力を伸張させた。
此処に至って古河公方と両上杉氏の和睦が成立した。
永正3(1506)年、古河公方2代政氏と嫡男高基が対立し、高基は下野宇都宮城に逃れた。永正6(1509)年、管領上杉顕定の周旋で高基は古河城に戻っている。
翌7年、周旋した顕定が越後で守護代長尾為景に敗れて討死すると、高基は再び古河城を出て、家臣簗田高助の居城関宿城に移った。
永正9(1512)年、管領山内上杉家でも顕実・憲房による家督争いが勃発した。政氏は顕実・高基は憲房を支援して争ったが、顕実の籠る鉢形城が落城した事によって勝負は決し、政氏は小山成氏を頼って古河城を出て祇園城に移り、替わって高基が入城して3代古河公方となった。
なお、政氏はその後永正13(1516)年に扇谷上杉朝良を頼って武蔵岩付城へ、15(1518)年には、武蔵足利政氏館(甘棠院)に移って隠棲した。
永正14(1517)年、政氏の次男義明が下総小弓城に入城して小弓公方を称した。
高基は、小弓公方の勢力伸張を恐れて嫡男晴氏に北条氏綱の娘を娶らせて北条氏と結んだ。天文4(1535)年に4代古河公方となった晴氏は、天文7(1538)年に小弓公方征伐を北条氏に命じて国府台にて撃破、小弓公方足利義明は敗死した。
天文10(1541)年、北条氏綱が死ぬと、勢力回復を狙う両上杉氏は晴氏に協力を要請、遂に天文14(1545)年に武蔵河越城を包囲したが、翌15(1546)年の河越夜戦で大敗した。
天文21(1552)年、晴氏は隠居して氏康の甥の義氏を5代古河公方とした。天正11(1583)年、義氏の死去によって男系男子が絶え、義氏の娘氏姫が古河公方職を継いで鴻巣御所に移り、替わって芳賀正綱が城代となった。
天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原の陣では前田利家率いる北国軍に攻略された。
豊臣秀吉は増田長盛に古河城の破却を命じて一旦廃城となったが、徳川家康の関東入部後には、信濃松本城から小笠原秀政が3万石で入城した。
慶長6(1601)年、関ヶ原合戦後の論功行賞で、秀政は信濃飯田城に転封となり、替わって上野白井城から松平(戸田)康長が2万石で入封した。
慶長17(1612)年、康長は常陸笠間城に転封となり、武蔵本庄城から小笠原信之が2万石で入城した。
小笠原氏は2代政信の時、元和5(1619)年に下総関宿城に転じ、替わって下野宇都宮城から奥平忠昌が入城した。
足掛け4年後の元和8(1623)年、忠昌は宇都宮城に復帰し、替わって常陸笠間城から永井直勝が7万2千石で入封した。
永井氏2代尚政は寛永10(1633)年、山城淀城へ移封となった
替わって下総佐倉城から土井利勝が16万石で入封した。土井氏5代利益の時、天和元(1681)年、志摩鳥羽城へ転封となり、替わって上野安中城より堀田正俊が9万石で入封した。
正俊は貞享元(1684)年江戸城内で稲葉正休に刺殺された。嫡子の正仲が家督を継いだが、翌年出羽山形城へ移封となった。
替わって大和郡山城より松平(藤井)信之が9万石で入封した。松平氏2代忠之は乱心のため、元禄6(1693)年に改易に処された。
翌元禄7年、松平(大河内)信輝が7万石で入封したが、2代松平信祝の時、正徳2(1712)年に三河吉田城へ転封となり、替わって三河刈谷城から本多忠良が入封した。
本多氏は2代忠敝の時の宝暦9(1759)年、石見浜田城へ転封となり、入れ替わりで松平(松井)康福が5万石で入封した。
3年後の宝暦12(1762)年、康福は三河岡崎城へ移封となって、替わって肥前唐津城から土井利里が8万石で入封した。
土井氏は7代にわたって古河城主として定着し、利与の時に明治時代を迎えた。
 現  況 城址は大正時代に行われた渡良瀬川の改修工事で、本丸をはじめ主郭部分は河川敷に取り込まれて遺構は完全に破壊された。
現在明確な遺構が残されているのは、歴史博物館のある諏訪郭と観音寺郭・桜町郭の土塁のみである。
上記のほか数箇所の門跡に石碑が建てられている以外、これといった遺構は残っていない。
建造物としては、乾門が福法寺に移築されているほか、文庫蔵・乾蔵が酒蔵の坂長店舗として移築されている。
城の遺構ではないが、旧土井家江戸下屋敷正門が正定寺黒門として移築されている。
城外建築物遺構

乾門(福法寺山門)

乾門(福法寺山門)

御茶屋口門跡
石碑

御茶屋口門跡
案内板

文庫蔵

乾蔵

土井家江戸
下屋敷正門
(正定寺黒門)

土井家江戸
下屋敷正門
(正定寺黒門)

古河藩使者
取次所跡

古河藩使者
取次所跡碑

新御三階
(個人宅)
観音寺郭

大手口(追手門)跡

大手口(追手門)跡
石碑

大手口(追手門)跡

東北端櫓台

東側切岸

西北側土塁

西側土塁

西側土塁

西側土塁

北西側土塁

頼政神社参道

頼政神社参道
土塁上

頼政神社

桜町郭・諏訪郭・主郭
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