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| 所在地 | 千葉県野田市関宿三軒家 |
| 交通機関 | 東武野田線 川間駅下車 朝日バス | 別 名 | - |
| 略 歴 |
関宿城が築かれたのは、長禄元(1457)年の事で、古河公方足利成氏の家臣簗田成助によるものと言われている。しかし、それに先立つ結城合戦の際に、下川辺一族が関宿城で挙兵したとの記録もあり、いずれが真実かは不明である。 いずれにしても、以後戦国期には、簗田氏が関宿城主として周辺勢力と戦っていく事となる。 簗田氏は、古河公方足利氏と縁を結び、足利氏の家老格として足利氏を助けていくが、勢力を増す北条氏に抗しきれず、足利晴氏が北条氏に屈すると、簗田氏は関宿城を北条氏に明渡して古河城へ移り、代わって足利義氏が関宿城に入城した。 上杉謙信の勢力が小田原に迫ると簗田氏は上杉氏と接近したため、義氏は小金城へ逃亡した。 永禄5(1562)年、北条氏康が古河城を奪還すると、簗田晴助を再度関宿城主に戻している。 永禄8(1565)年、新たに手に入れた岩槻城を拠点として、北条氏は関宿城への攻撃圧力強めていった。 北条氏は、関宿城近くまで迫ったが敗れて、永禄10(1567)年和睦している。 翌永禄11(1568)年、北条氏照が下総の栗橋城を勢力化に置くと、山王山砦を整備して再度関宿城攻略を謀った。この時も関宿城は難攻不落振りを発揮している。 北条氏康の死に伴う越相同盟の締結で、北条軍は撤兵した。 元亀2(1571)年、越相同盟が破棄されると、北条氏照は全兵力を上げて関宿城攻略に取り掛かった。 天正元(1573)年には、夜襲で攻略を図ったが失敗、翌年には正攻法で大軍によって包囲し、持久戦を行った。簗田氏は、反北条の佐竹氏や上杉氏に救援を求めたが援軍の派遣に至らず、遂に開城した。 天正18(1590)年の小田原の陣によって北条氏が滅ぶと、代わって関東に入った徳川家康は、江戸城防衛と利根川水運の要として関宿城を重視し、三河蒲形城主であった松平(久松)康元を関宿城に2万石で入れた。 元和2(1616)年、2代忠良は美濃大垣城に移封、替わって松平(能見)重勝が越後三条より入城したが、2年後の元和5(1619)年に遠江横須賀城に移封となり、下総古河城から小笠原政信が2万石で入封した。 寛永17(1640)年、2代貞信は美濃高須城に転封となり、替わって遠江久野城から北条氏重が2万石で入封した。 氏重は4年後の正保元(1644)年に駿河田中城へと去り、武蔵石戸の牧野氏陣屋から牧野信成が1万7千石で入封した。 明暦2(1656)年、牧野氏2代親成は京都所司代となったため、所領を河内・摂津に移され、替わって前任の京都所司代板倉重宗が5万石で関宿城に入城した。 板倉氏は3代に渡って関宿藩を統治したが、寛文9(1669)年、重常の時に伊勢亀山城に加増転封となった。 替わって徳川家綱によって取り立てられ、若年寄にまでなった久世広之が5万石で関宿城主となった。 天和3年、久世氏2代重之は、備中庭瀬城に転封となり、替わって上野館林城から牧野成貞が5万3千石で入封した。 牧野氏も2代成春の宝永2(1705)年、祖先の地、三河吉田城に加増転封となり、入替わりで久世重之復帰し、以後8代に渡って関宿藩を治め、広業の時に明治維新を迎えた。 |
| 現 況 |
城址は現在関宿城博物館の位置ではなく、その東南500メートルの位置に存在する。 本丸の2/3は堤防の下に埋まってしまっているが、本丸南側の折を付けた土塁が残されている。 二之丸は東側は本丸同様堤防下に埋められてしまっているが、南側は民家や牧場・荒地として残っており、堀の残滓を見る事ができる。 三之丸は、香取神社裏手から旧関宿小学校北側を通り、稲荷神社付近まで水濠跡が残されている。 また、千葉県内の遺構としては唯一の御殿遺構が市内実相寺に、城内の門遺構として、市内東高野の小林家に埋門が移築されている。 |
![]() 発端曲輪遠望 |
![]() 本丸新御殿 |
![]() 小林家埋門 |
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