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| 所在地 | 千葉県佐倉市臼井田町 |
| 交通機関 | 京成本線 京成臼井駅下車 徒歩25分 | 別 名 | - |
| 略 歴 |
永久2(1114)年、千葉常兼の子・常康が臼井に館を築き臼井氏を名乗ったのが、臼井氏の始まりである。 しかしながら、この時築いた居館が、現在の臼井城であったかどうかはわかっていない。 臼井城の築城年代を明確に示す資料は発見されていないが、14世紀初頭の臼井興胤が基礎を築いたと言われている。 文明10(1478)年、長尾景春の乱に応じて上杉氏と対立した千葉孝胤は、境根原で上杉方の太田図書介資忠・千葉自胤と激突し敗れ、臼井城に逃げ込んできた。 翌11年、太田勢は臼井俊胤・持胤の籠る臼井城に押し寄せた。大将太田資忠を失いながらも苦戦を制し、臼井城は落城した。 自胤は、家臣粟飯原右衛門を城将として引揚げたが、臼井勢はあっさりと城を奪回したといわれている。 小弓公方足利義明が勢力を伸ばし、古河公方と対峙すると臼井城主の臼井景胤は小弓公方に味方し、千葉氏、原氏と対立したが、天文7(1538)年の第一次国府台合戦で足利義明が戦死すると、千葉氏側に帰参した。 弘治3(1557)年、景胤の遺言により、久胤の後見として原胤貞が臼井城に入り、この時から臼井城は原氏の支配下に組み込まれた。 永禄4(1561)年、上杉謙信の小田原攻めに呼応した里見氏家臣の正木大膳に攻められ臼井城は落城した。城主臼井久胤は結城城の結城晴朝を頼って落ちていった。 永禄7(1564)年、北条氏の援助を受けた千葉氏方の原胤貞は正木氏の守る臼井城を奪還した。 永禄8(1565)年、北条方の臼井原氏は、里見方に通じた土気酒井胤治を攻めた。窮地に立った胤治は、里見氏と同盟関係にあった上杉謙信に助けを求めた。 翌永禄9年、関東に出陣した上杉謙信は、里見義堯・義弘父子らと臼井城を攻めた。臼井城には援軍の千葉胤富らが立て籠もった。 謙信は、対の城として砦を作ったが、これが後に謙信一夜城と呼ばれた城である。 この戦いでは、臼井城は「実城堀一重」の落城寸前まで追い込まれたが、謙信は将軍足利義昭による上洛督促や長対陣の不利から退却していった。 元亀元(1570)年、原氏の本拠・生実城が里見氏により攻略され、以後臼井城が原氏の本拠となった。 原氏は、天正18(1590)年の小田原征伐に、北条氏方となって参加したため、北条氏と命運を共にし、臼井城は開城した。 徳川家康が関東に入封すると、臼井城に家臣酒井家次が入城した。 文禄2(1593)年1月、臼井城は失火から炎上し、灰燼に帰した。そのため、家次は鹿島城(現在の佐倉城)に居を移した。 その後、臼井城は修理もされないまま放置されたが、慶長9(1604)年、家次が上野高崎城に転封になると廃城になった。 |
| 現 況 |
城址は主郭部分である一郭・二郭が臼井城址公園として整備されている。 一郭には大手口に大規模な土塁や搦手口には関東には珍しい石塁が残されている。 また、一郭・二郭を廻る空掘がしっかりと残されている。 外郭部は、宅地や田畑になっているが、一部の山林や竹林に土塁や空掘りの名残が残されている。 |
| 外 郭 |
![]() 外郭空掘 |
![]() 外郭空掘と土塁 |
![]() 外郭空掘と土塁 |
![]() 外郭空掘と土塁 |
![]() 外郭土塁 |
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![]() 外郭土塁 |
![]() 外郭土塁 |
![]() 外郭土塁 |
![]() 外郭土塁 |
![]() 外郭土塁 |
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![]() 外郭土塁 |
![]() 外郭土塁 |
![]() 外郭土塁 |
![]() 外郭土塁 |
![]() 外郭土塁 |
![]() 天満宮 |
![]() 太田図書墓 |
![]() 外郭切岸 |
| 二 郭 |
![]() 二郭土橋 |
![]() 二郭空掘 |
![]() 二郭空掘 |
![]() 二郭空掘 |
![]() 臼井城址碑 |
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![]() 二郭櫓台 |
![]() 二郭櫓台 |
![]() 二郭空掘 |
![]() 二郭土塁 |
![]() 二郭跡 |
![]() 二郭跡 |
![]() 本 丸 |
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