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| 所在地 | 栃木県佐野市富士町 |
| 交通機関 | 東武佐野線 田沼駅下車 徒歩50分 | 別 名 | - |
| 略 歴 |
天慶3(940)年、藤原秀郷が築城を始め同5年に落成したと言われている。 秀郷は、平将門の乱の鎮定に功があり、下野に勢力を張って繁栄した。その後、その子孫は小山氏・足利氏(藤姓)などの、有力武士団を形成した。 この時期、唐沢山城は一時廃城となっていたが、足利信綱の弟成俊が、佐野荘司と称して唐沢山城を再興した。 鎌倉期には、佐野太郎基綱など、鎌倉幕府の御家人として活躍したが、宝治元(1247)年の宝治合戦では三浦氏側に就いた為、敗れて衰退した。 戦国期になると、古河公方・上杉氏・北条氏などの諸勢力間への対応に苦慮し、永禄4(1561)年には、城主佐野盛綱が上杉政虎から攻撃されるも、これを撃退している。 上杉謙信が死んで、北関東に北条氏の勢力が伸張すると、天正9(1583)年には、佐竹氏と共同して防戦に努めた。 天正13(1585)年、城主佐野宗綱が討死すると、北条氏康の六男氏忠が、佐野家に養子に入り、唐沢山城は北条氏の支配下に組み込まれ、大貫越中守が城代として守備についた。 天正18(1590)年の小田原征伐で、佐野宗綱の弟天徳寺了伯が豊臣秀吉に従って唐沢山城を攻略、佐野房綱と名乗って城主となった。 二年後、家督を家臣富田左近将監の次男信種(信吉)に譲って隠居した。 慶長7(1602)、江戸幕府の関東においての山城廃城政策により、佐野春日岡に佐野城を築城し、同12年に唐沢山城は廃城となった。 |
| 現 況 |
城址は唐沢山神社の境内地となっており、本丸に本殿が建てられている。 関東には珍しい石垣遺構が、本丸・二之丸・南城などに壮大な石垣遺構が残されている。 城域は非常に広く、各曲輪の土塁・空掘・堀切などが、非常に良好な状態で残されている。 |
| 土櫓 |
![]() 土櫓台 |
![]() 土塁 |
| 桝形 | 倉屋敷から天狗岩に至る間の桝形虎口。 |
![]() 唐沢山城址碑 |
![]() 唐沢山城址碑と 桝形虎口石垣 |
![]() 桝形虎口 |
![]() 桝形虎口 |
![]() 桝形虎口 |
| 天狗岩 | 物見としての役割をした |
![]() 天狗岩 |
![]() 天狗岩 |
![]() 天狗岩より 佐野市街を望む |
| 天徳丸 | 西城とも呼ばれており、神橋を側面から守っている |
![]() 天徳丸石垣 |
![]() 天徳丸石垣 |
![]() 天徳丸石垣 |
![]() 天徳丸 |
| 大炊井 | 唐沢山城の水之手で、築城の際に厳島大明神の霊宣で掘られたと言われている |
![]() 大炊井 |
![]() 大炊井 |
| 根小屋神社跡 | 西城(天徳丸)の反対に築かれた前備えの城の一郭と想定される。 |
![]() 根古屋神社 |
![]() 根古屋神社 |
| 組屋敷 | 西城(天徳丸)の反対に築かれた前備えの城のニ郭と想定される。 |
![]() 組屋敷跡 |
![]() 組屋敷跡 |
| 組屋敷帯郭 | 神橋・大炊井を守る前備えの城の最前線。 |
![]() 明治天皇御製碑 |
![]() 帯郭 |
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四つ目堀 神橋 |
本城部の最前線の空掘である。往時はもっと深く、神橋は引橋であった。 |
![]() 四つ目堀 |
![]() 四つ目堀 |
![]() 四つ目堀 と神橋 |
![]() 四つ目堀 |
![]() 神橋 |
![]() 四つ目堀から 続く竪堀 |
![]() 本城1 |
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