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| 所在地 | 栃木県小山市中央町1 |
| 交通機関 | JR小山駅下車 徒歩15分 | 別 名 | 小山城 |
| 略 歴 |
小山御殿は、徳川将軍家の日光社参の際に休憩・宿泊所として利用するために、小山評定の吉例に習って設置されたと言われている。 徳川家康は元和2(1616)年4月17日に没すると、駿河久能山東照宮に埋葬され、翌年江戸の鬼門にあたる日光に改葬されて一周忌が行われている。 徳川将軍家の日光社参は19回に及び、中でも3代将軍家光は10回も社参を実施している。 将軍の日光社参は、寛文3(1633)年、4代将軍家綱の社参を最後に、8代吉宗が享保13(1728)年に再開するまで中断された。 小山御殿はこの間利用されなかったため、天和2(1682)年、古河藩によって解体された。 |
| 現 況 |
小山御殿は、現在の小山御殿広場から市役所の敷地に至る大きさで、往時は二重の土塁、水濠に守られた、厳重なものであったが、現在は見るべき遺構は何も残されていない。 御殿背後には思川が流れており、断崖となっているため、防御性は高かったと思われる。 また、北西側には祇園城太鼓曲輪の空掘・土橋が良好な状態で残されている。 |
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小山御殿 |
![]() 小山御殿広場 案内板 |
![]() 小山御殿広場入口 |
![]() 小山御殿広場 北側 |
![]() 小山御殿広場 |
![]() 小山御殿広場 |
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![]() 西側崖上 |
![]() 小山御殿広場 |
![]() 小山御殿広場 |
![]() 小山御殿広場 |
![]() 小山御殿広場 |
![]() 小山御殿広場 |
![]() 小山御殿広場 |
![]() 西側切岸 |
| 祇園城太鼓曲輪 |
![]() 太鼓曲輪土橋 |
![]() 南側空掘 |
![]() 東側空掘と土橋 |
![]() 太鼓曲輪 |
![]() 南側空掘(堀底) |
![]() 東側空掘(堀底) と土橋 |
![]() 太鼓曲輪東面 切岸 |
![]() 太鼓曲輪西面 切岸 |
| 小山評定跡 |
慶長5(1600)年7月24日、徳川家康率いる軍勢は、会津城の上杉景勝征討のため、小山に到着した。家康はここで、石田三成が家康打倒のために挙兵したとの報に接した。 翌25日、この地で参陣諸将を集めて軍議が行われた。これが小山評定と呼ばれるものである。 軍議は、急造した三間四方の借御殿で家康・秀忠を中心に開かれた。 この評定では、豊臣恩顧の大名で武断派と呼ばれる福島正則・山内一豊らが、吏僚派の三成討滅のため家康に味方する事を誓ったため、家康の期待通りに進んだと言われている。 一方、真田昌幸・幸繁(幸村)がここから上田城に籠城するために離脱している。 この評定の後、9月15日の関ヶ原合戦で、東海道を進んだ東軍の家康は、諸大名の軍勢を糾合して西軍の三成を撃破している。 一方、中山道を進んだ秀忠の徳川主力部隊は、小山から離脱した真田父子の上田城攻略に手間取り、関ヶ原合戦に遅参するという失態を演じている。 |
![]() 小山評定跡碑 |
![]() 小山評定跡碑 |
![]() 小山評定跡由来 説明版 |
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