帝國博物学協会

下野國
宇都宮城
 所在地 栃木県宇都宮市本丸町
 交通機関 JR宇都宮駅下車 徒歩15分
 別  名 亀ヶ岡城
 略  歴 平安時代、宇都宮朝綱により築かれた。その後宇都宮氏は、奥州から九州まで広く分派していくこととなるが、宇都宮宇都宮氏はその宗家として、下野に強固な支配体制を築いていく。
天正18(1590)の小田原の陣後も、豊臣秀吉により所領を安堵され、宇都宮氏18万石の本城として引き続き繁栄するかに見えたが、慶長2(1597)年、浅野長政から石高詐称を訴えられて改易となった。
翌慶長3年、会津若松城から蒲生秀行が18万石に減封されて入城した。
慶長5(1600)年、関ヶ原合戦の軍功で秀行は再び会津若松城60万石に抜擢された。替わって翌年、奥平家昌が10万石で入城した。 元和5(1619)年、2代忠昌は下総古河城11万石に転封となり、替わって本多正純が祇園城から入城した。
元和8(1622)年、正純が出羽山形城の最上氏が改易となった際、城受取りの上使として赴いている最中に改易となった。
改易の理由とされたのは、宇都宮城釣天井事件(将軍秀忠暗殺未遂事件)など11か条の嫌疑によるものであった。
幕府は一旦宇都宮城を収公した上であらためて出羽の内由利郡5万5千石が与えられる筈であったが、正純が潔白である事を主張して辞退したため将軍秀忠の怒りを買い、佐竹氏預かりとなり横手城に蟄居させられた。
替わって下総古河城から奥平忠昌が復帰した。
寛文8(1668)年、奥平氏は2代昌能の時に出羽山形城に転封となり、入替わりで松平(奥平)忠弘が15万石で入城したが、天和元(1681)年、陸奥白河小峰城転封となった。
入替わりで本多忠平が陸奥白河小峰城から11万石で入城した。
貞享2(1685)年、忠平は大和郡山城へ移封となり、奥平昌章が山形城より転封となり、奥平氏が宇都宮城主として復帰した。
奥平氏はまたもや2代で国替えとなり、元禄10(1697)年、昌成は丹後宮津城に転封となり、入替わりで阿部正邦が10万石で入城した。
宝永7(1710)年、正邦は備後福山城に移り、戸田忠真が越後高田城から入封した。
戸田氏は3代に渡って宇都宮を治めたが、寛延2(1749)年、忠盈の時に肥前島原城に移封となった。
入替わりで松平(深溝)忠祇が6万6千石で入城した。安永4(1775)年、2代忠恕が再度戸田忠寛と交代転封して肥前島原城へと転封した。
これ以後戸田氏が江戸末期まで城主となった。
明治元(1868)年、宇都宮城は戊辰戦争の激戦地となり、官軍の大鳥圭介により攻められ、落城・炎上した。
 現  況 2009/2/11書換え
宇都宮城址公園として整備されており、本丸西側の土塁が模擬復元されており、清明台・富士見櫓が木造で復元されている。
土塁の下には小さな解説施設があるので、ここで資料などを閲覧できる。
清水門・伊賀門跡が平面表示されており、伊賀門南の土橋も発掘されている。
2002/8/18掲載

清明館石垣

二之丸出土
の残石

本丸南西側土塁

本丸南西土塁

富士見櫓櫓台
土塁

本丸伊賀門跡

本丸伊賀門跡
屋形曲輪跡
2009/2/11追加
  西側の土塁や伊賀門付近の変貌状況がよくわかる。2002年撮影の5枚目と2009年撮影の1枚目は、ほぼ同じ位置の撮影である。(後ろの民家が同じです!)

富士見櫓

富士見櫓西面

富士見櫓南面

本丸西側土塁

横矢屏風折

清明台

清明台

清明台

西側土塁上

富士見櫓北面

富士見櫓東面

南西側堀跡

南西側堀跡

伊賀門土橋
石垣

伊賀門土橋

伊賀門跡

伊賀門跡

清水門跡
平面表示
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