帝國博物学協会

下野國
鷲城
 所在地 栃木県小山市外城
 交通機関 JR小山駅下車 徒歩20分
 別  名 -
 略  歴 明確な築城者・築城年代は不明であるが、小山政光によって築かれたと言われている。
小山氏の本拠は現在曲輪と呼ばれている小山氏館であったが、10代義政の頃には鷲城を居城としていた。
康暦2(1380)年、義政は下野の対抗勢力宇都宮基綱と領地を巡って争い、基綱を攻め滅ぼした。
時の鎌倉公方足利氏満は、関東管領上杉憲方の代官上杉朝宗と下野守護代木戸法季を主力とした討伐軍を差し向けた。
小山義政は4ヶ月に渡って小山氏館・鷲城に籠って抗戦するが、衆寡敵せず降伏する事となった。
翌永徳元(1381)年、義政は鷲城を修復強化すると共に、新たに新城(長福城と見られる)を築城して、万全の備えを取ると再度挙兵した。
氏満は12カ国の武士に命じて小山氏討伐軍を再度送り込んだ。小山勢は6ヶ月に渡って鷲城に籠城するが落城、義政は降伏して出家、家督を若犬丸に譲って祇園城に退いた。
翌永徳2(1382)年、義政は三度挙兵、祇園城に火をかけると、粕尾城に籠城した。足利氏満は度重なる義政の反抗に対して自ら出陣し、大軍をもって粕尾城を攻撃、義政は敗れて自刃した。
嫡子若犬丸は戦場を逃れ、常陸の小田氏の後援によって、難台山城に拠ったが敗れ、応永4(1379)年、奥州会津の地で自害し、小山氏は滅亡した。
小山氏の名跡は、一族の結城泰朝によって継承された。
その後の鷲城がどうなったかについては不明であるが、天正18(1590)年に小田原北条氏と共に小山氏が滅ぶまで、祇園城の支城として存続したと考えるのが妥当であろう。
 現  況 鷲城址は、小山3城の最南端に位置し、城域は国指定史跡に指定されている。現在鷲神社の建っている場所が主郭であったと考えられている。
鷲神社の東側には、南北に直線状の土塁と空掘が残るが、往時は搦手虎口付近から東西にも土塁と空堀が存在していたのではないかと想像している。
中城の土塁・虎口・空掘などは、比較的状態よく残されており、土塁の高さなどは圧巻である。
外城については、南側の土塁の一部や堀が残されているが、大半は宅地や畑となって失われている。
国道50号線の西側に櫓台が残されているが、中城の土塁の終端はここであったと思われる。
外城 中城の南側に設けられた曲輪であった。
現在はほとんどが住宅地となっており、断片的な土塁と堀の跡を残すのみである。

外城土塁

外城土塁

外城空掘

土塁遠望

思川沿いの切岸

思川沿いの切岸

思川沿いの切岸
中城 城址遺構として一番良好に残されている。
中城は、思川沿いの搦手虎口から鷲神社参道入口(城址碑の場所)を経由して、国道沿いの櫓台に至るまでをその範囲としていたと考えられる。

西北端櫓台

北側切岸

西北端櫓台

西北端櫓台下

中城土塁

外城から中城
空掘へ降りる
付近の土塁

空掘南東端

南側土塁

空堀底

空堀底

虎口付近土塁

空堀底

空堀底より
土塁を俯瞰

空堀底より
土塁を俯瞰

外城から中城
空掘へ降りる
付近から望む

外城から中城
空掘へ降りる
付近

南西側空堀
と土塁

外側土塁上

外側土塁

空掘底

二重土塁

二重土塁

搦手口

二重土塁
外側土塁

中城土塁

中城土塁

中城

鷲城跡碑

大手虎口

鷲城跡案内板

中城

中城

内城(仮称)
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