帝國博物学協会
信濃國
塩田城
 所在地 長野県上田市前山
 交通機関 上田電鉄 中野駅下車 徒歩30分
 別  名 -
 略  歴 建治3(1277)年、鎌倉幕府で連署を務めた北条義政が、信濃国塩田荘に館を構えて隠棲したことが塩田北条氏の始まりで、以後国時、俊時と3代に渡ってこの地を治めた。
その居城として築かれたのが塩田城である。
元弘3(1333)年、後醍醐天皇の綸旨を受けて新田義貞が鎌倉幕府倒幕に挙兵すると、北条陸奥入道国時も幕府の軍勢を率いて武蔵関戸で新田軍と戦い、この戦いに敗れると、鎌倉東勝寺で国時・俊時父子で自刃、塩田北条氏は滅亡した。
建武2(1335)年、この地方は、足利氏の家臣として倒幕に功のあった村上信貞に与えられ、塩田城には重臣福沢氏が入城した。
天文17(1548)年、信濃侵攻を図る武田晴信が上田に侵攻すると、村上義清がこれを上田原で迎撃(上田原合戦)、武田軍は板垣信方、甘利虎泰らの重臣が討ち死にして敗北、更に19年には戸石城を攻撃したものの落とせず、義清ら信濃豪族連合軍の追激を受けて、横田備中守高松を失う敗北を喫した(戸石崩れ)。
晴信は、力攻めを諦めて真田幸隆の調略によって翌天文20年に戸石城を攻略、更に多くの豪族が武田方に寝返った。
天文22(1553)年、晴信は軍を進めて塩田城を攻撃、塩田城は落城した。
義清は本拠葛尾城が信玄によって攻められると、支えきれず越後春日山城の長尾景虎を頼って逃走した。
救援の依頼を受けた長尾景虎は越後勢を率いて信濃に出陣し、支援を受けた村上義清は旧領を回復し塩田城に入城した。
義清は塩田城を居城として再度旧領の支配を行うが、一方の晴信は再度信濃侵攻を決めると、義清の籠もる塩田城に向けて出陣した。
武田軍は和田城、高鳥屋城を攻略、塩田城に迫った。これによって義清は塩田城を放棄して脱出したが、その後の行方わかっていない。
再び塩田城を手に入れた晴信は、城将として飫富兵部少輔虎昌を入れた。
信濃支配を強める晴信に対して、長尾景虎も軍を南下させて備えたため、虎昌を室賀城に移動させて守らせると共に、自身ら塩田城に着陣して長尾軍の攻撃に備えた。
こうした晴信の備えによって、長尾軍は撤退し、武田氏による支配が確立することとなった。
天正10(1582)年、武田氏が滅亡すると信濃は織田氏の支配下となったが、真田昌幸はこの中を生き延びて支配を広め、塩田城を支配下に入れることに成功した。
しかし、翌天正11(1583)年には上田城の築城を開始し、塩田城を廃城とした。
 現  況 塩田城は2つの尾根の間の谷内に築かれた城郭で、麓の城下から段々畑のように中小の曲輪が展開している。
山裾には居館が置かれていたものと思われるが、その切岸が今も残されており、登城路入口脇に塩田城址の案内板と城址碑が立てられている。
城内の整備状態はあまりよくなく、雑草が生え放題になっており、虎の口跡の石垣も雑草に埋もれたようになっておりよく見ることができなかった。
なお、発掘した時の出土品や塩田城の復元図が、近くの塩田の館にてんじされている。
当日はあまり体調がよくなかったため、途中で吐き気を催して山頂まで登ることができず残念でした。
城下

市神

塩田城跡案内版
と城址遠望
居館

居館跡付近

居館切岸

塩田城跡碑前

城跡碑脇の土塁

塩田城跡碑

城跡碑前

登城路

横堀跡

城跡碑脇の土塁

登城路
曲輪群

登城路東側の
切岸

登城路

登城路東側の
土塁

登城路

登城路西側の
空掘らしき窪地

登城路

登城路
虎ノ口

虎ノ口石塁

虎ノ口北面
門外

虎ノ口残石

虎ノ口

虎ノ口石塁

虎ノ口内側

虎ノ口内側

井戸跡

井戸跡

虎ノ口

虎ノ口
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