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| 所在地 | 長野県上田市二の丸 |
| 交通機関 | JR長野新幹線 上田駅下車 徒歩10分 |
| 別 名 | 尼ヶ淵城・真田城・伊勢崎城・松尾城 |
| 略 歴 |
天正11(1583)年、それまで小県郡の土豪、小泉氏の砦があったとされる尼ヶ淵の河岸段丘上に、真田昌幸が築城したのが上田城である。 真田昌幸は真田郷を本拠とする海野氏の一族で、武田信玄の信濃攻略に協力して勢力を維持した真田幸隆の子である。 武田氏の滅亡後、昌幸は一時北条氏に従ったが、その後徳川家康に臣従した。 翌天正12年、徳川氏と北条氏が和議を結ぶと、和議に従って上野沼田城を北条方に渡すことを命じられて反発、翌13年には子息信繁を人質として送り、上杉景勝に従った。 これに怒った家康は、大久保忠世を総大将として7000の軍勢を派遣して上田城に攻め寄せた。 昌幸は上杉景勝に援軍を要請、景勝は地蔵峠を越えて根小屋城に着陣し、後詰を行った。 徳川勢は上田城に攻めかかったものの、城内からの攻撃と、戸石城から背後を突いた嫡男信幸軍の攻撃を腹背に受け壊走、更に矢沢城から追撃した矢沢軍によって神川に追い落とされ、多くの将兵が死亡した。 この徳川方が大敗を喫した戦いを、第一次上田合戦といい、真田昌幸の名が、一気に天下に轟いた。 その後、主家である上杉氏が関白豊臣秀吉に臣従するに至り、真田氏も豊臣政権下の大名となった。 天正18(1590)年、秀吉は北条氏との約定に従い、沼田城の北条氏への引渡しを命じた。昌幸はまたしても沼田城を開城しなければならなくなったが、天下人である秀吉には逆らえず、今度は北条氏に沼田城を引き渡している. これが、小田原征伐の端緒となり、北条氏は滅亡することとなる。 慶長5(1600)年、上杉討伐に向かう徳川家康の軍に参陣していた昌幸・信幸・信繁に、石田三成挙兵の知らせが入ると、昌幸・信繁の2人は三成に加勢すべく居城の上田城に撤退、2000の軍勢で籠城した。 中山道を西上するのは家康の嫡男秀忠率いる徳川軍主力38000であった。 昌幸は使者である嫡男信之の顔を立てて、降伏するかのように見せかけて籠城準備、この完了をみて抗戦の態度をあきらかにした。 愚弄された秀忠は激怒して自ら軍を率いて上田城の攻撃を行った。昌幸・信繁は寡勢をよく率いて徳川軍を翻弄し、秀忠軍を4日間足止めした。これが第二次上田合戦である。 このため、秀忠は関ヶ原合戦本戦に間に合わず、家康の不興を買うこととなってしまった。 昌幸・信繁父子は、東軍に味方した信之の取り成しもあって死一等を減じられて九度山に追放となり、旧領は信之に与えられた。 二度に渡って徳川軍を苦しめた上田城は完全に破壊され、信之は旧三之丸内に城主屋敷を築いてここに居住した。 元和8(1622)年、真田氏は松代城に転封となり、替わって小諸城から仙石忠政が6万石で入封し、破壊されていた上田城を再建した。 しかし、城内には藩主の御殿は建てられず、従来どおり藩主は城主屋敷に起居し、政務を執った。 宝永3(1706)年、仙石氏3代仙石政明は但馬出石城に転封となり、藤井松平忠周が58000石で入封し、以後7代忠礼の時に明治維新を迎えた。 |
| 現 況 |
城址は上田城跡公園となっており、本丸には歴代藩主を祀る真田神社が鎮座している。ここには城外への抜け穴とも伝えられる井戸がある。 城址本丸跡には仙石氏が再建した3棟の櫓が現存している。明治の廃藩置県の際に7棟あった櫓のうち、西櫓を除く6棟の櫓は解体されて売却された。 この櫓の内2棟は上田市内の遊郭に売却されていたが、昭和16年に目黒雅叙園が購入した。 その後市民運動によって現在の北櫓・南櫓の位置に復元された。 平成6(1994)年、東虎口櫓門と南櫓と北櫓の間を結ぶ袖塀が復元されている。 二之丸には市立博物館・市民会館・プールなど公共施設が設置されている。また、小泉曲輪跡には市民会館などが設置されている。 三之丸の遺構はほとんど残されていないが、大手門の跡には大手門公園が置かれている。 |
| 三之丸 |
上田城の外郭で、郭内に堀で囲まれた藩主の居館した城主屋敷や古屋敷が置かれていた。 三之丸については明確な遺構は残されていないが、大手門の跡に大手門公園が置かれており、道路が門跡に沿って屈曲しているのがわかる。 |
![]() 大手門跡付近 |
![]() 大手門公園 |
![]() 大手門跡付近 |
![]() 藩校明倫堂跡 |
![]() 藩校明倫堂跡 |
![]() 藩校明倫堂跡 |
![]() 上田城主屋敷 |
![]() 古屋敷 |
![]() 二之丸・小泉曲輪 |
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