帝國博物学協会
伊豆國
伝堀越御所
 所在地 静岡県静岡県伊豆の国市韮山四日町
 交通機関 伊豆箱根鉄道 韮山駅下車 徒歩15分
 別  名 -
 略  歴 伝堀越御所は、堀越公方足利政知の御所である。
政知は、永享7(1435)年、室町幕府6代将軍足利義教の子として生まれたが、幼い頃に天竜寺香厳院に入り修行した。
長禄元(1457)年、8代将軍足利義政の命により還俗し、政知と名乗った。
この頃関東では、享徳の乱で関東管領上杉氏と対立した鎌倉公方、足利成氏が古河へ逃れ、古河公方として反幕府の立場を鮮明にした。
上杉家では対成氏として新たな鎌倉公方を擁立するため、将軍義政に派遣を要請政知が幕府公認の鎌倉公方として下向することとなった。
しかし、政知がいざ鎌倉に入ろうとすると、要請した上杉家側で、政知擁立反対を唱えるもの(扇谷上杉氏)が出てきたため、政知は、鎌倉に入る事ができなかった。
政知は、やむを得ずこの堀越に館を築き、以後堀越公方と称して、古河公方と関東の権力を争った。
文明14(1483)年、上杉氏と古河公方が和睦すると、堀越公方の存在意義が薄れ、政知の勢力は、直轄地の伊豆一国に限定される事となってしまった。このため、やむを得ず、政知は古河公方と和睦した。
晩年、政知は、嫡男茶々丸を廃嫡とし、側室円満院の生んだ足利潤童子に家督を譲ろうとしていたが、延徳3(1491)年4月に病死した。
政知の死後、茶々丸は、弟潤童子と継母円満院を殺害、堀越公方となったが、重臣外山豊前守を誅するなどの乱行を重ねたために伊豆国は混乱状態に陥った。
この機に乗じて伊豆に攻め入ったのが、興国寺城に拠っていた伊勢宗瑞であった。
宗瑞は、跡目争いに敗れた潤童子派の家臣を味方につけ、一気に堀越御所を急襲し、足利茶々丸を追った。
ここに、政治体制としての堀越公方は滅亡し、堀越御所も廃止された。
 現  況 伝堀越御所は、ほぼ北條氏館に重なる位置に存在していたようである。
発掘では、現在案内板が立てられている公園(といっても、草原…)から、庭園が発見されている。
付近は国指定史蹟となっているが、民有地も多く、発見された遺構も埋め戻されているため、単なる原っぱでしかないのが残念である。

伝堀越御所跡
案内板

伝堀越御所跡
の原っぱ

泉池発見場所
付近

伝堀越御所跡
付近

伝堀越御所跡
付近
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