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| 所在地 | 静岡県掛川市掛川 |
| 交通機関 | JR掛川駅下車 徒歩15分 |
| 別 名 | 雲霧城・松尾城 |
| 略 歴 |
戦国期、今川氏の家臣朝比奈氏により創建されたとされる。 桶狭間合戦で、駿河の太守今川義元が織田信長に討たれると嫡男氏真が領国を継いだが、永禄11(1568)年、甲斐の武田信玄と三河の徳川家康が共同して駿遠侵攻を開始した。 氏真は駿府館から逃亡、朝比奈泰朝の籠る掛川城を頼って落ちてきた。泰朝は氏真を守って抵抗したが、徳川家康の攻撃を受けて開城した。 遠州を支配下に入れた家康は、掛川城を石川家成・康通父子に与えて守らせた。 天正18(1590)年、小田原の陣後、徳川家康は関東に移ったため、石川氏もこれに従って上総成東城へ移った。 替わって近江長浜城から山内一豊が5万1千石で入城した。 掛川城が近世城郭として整備されたのは、山内一豊の手によるものと言われている。 慶長5(1600)年、関ヶ原合戦では、下野小山の陣所で家康に掛川城を進ずる提案をしており、その功で一豊は土佐浦戸城20万石に加増転封となった。 翌慶長6年、伊勢長島城から家康の異父弟・松平(久松)定勝が3万石で入封した。 慶長12(1607)年、定勝は山城伏見城代となったため、掛川城は定勝の次男定行が継いだ。 元和3(1617)年、駿河駿府城に徳川頼宣が入城する事となり、定行は伊勢桑名城へ移封された。 替わって頼宣の付家老安藤直次が2万8千石で入城したが、元和5(1619)年に頼宣が紀伊和歌山城に移封となると、直次も紀伊田辺城に移された。 掛川城には3万石で常陸下妻城から松平(久松)定綱が入城した。 元和9(1623)年、3代将軍家光の弟の徳川忠長が駿河駿府城に入城すると、定綱は山城淀城に移されて、忠長の付家老、朝倉宣正が2万6千石で入城した。 寛永9(1632)年、忠長が改易されると宣正も連座して改易された。 翌寛永10年、青山幸成が2万6千石を得て掛川城に入城したが、2年後の寛永12年には更に加増され摂津尼崎城に転封となった。 替わって駿河田中城から松平(桜井)忠重が4万石で入封した。 寛永16(1639)年、2代忠倶の時、松平家は信濃飯山城に転封となり、播磨姫路城本多氏の分家忠義が7万石で入封した。 この後城主は目まぐるしく変わり、5年後の正保元(1644)年、忠義は越後村上城に移され替わって駿河田中城から松平(藤井)忠晴が3万石で入城したが、4年後の慶安元(1648)年には丹波亀山城に転じ、替わって駿河田中城から北条氏重が同じく3万石で入城した。 万治元(1658)年、氏重が没すると北条氏は嗣子なく断絶となった。 翌万治2年、三河西尾城から井伊直好が3万5千石で入封した。宝永2(1705)年、井伊家3代直朝が精神を病んで参勤を怠った廉で隠居をさせられ、跡を継いだ4代直矩は就任即日越後与板城に減封となった。 替わって信濃飯山城から松平(桜井)忠喬が4万石で入封したが、6年後の正徳元(1711)年には摂津尼崎城へ移封となった。 掛川城には武蔵岩槻城から小笠原長煕が6万石で入封した。 延享3(1746)年、小笠原氏2代長恭は陸奥棚倉城へ移封となった。 替わって上野館林城から太田資俊が5万石で入城した。 太田氏は以後7代に渡って掛川を治め、資美の時に明治維新を迎えた。 明治元(1868)年、大政奉還した徳川家達が、駿遠三の国主となって駿府城に入城したため、上総松尾に移封となり新たに松尾城を築城することとし、掛川藩は廃された。 |
| 現 況 |
現在、城址は城址公園となり、本丸・二之丸・天守丸・などの曲輪跡がよく残っている。 また、二之丸御殿・太鼓櫓・大手番所が現存しており、近年天守及び大手門などが再建された。 |
![]() 大手門 |
![]() 大手門番所 |
![]() 三光稲荷神社 |
![]() 大手門から 主郭を望む |
![]() 四足門 |
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![]() 三日月掘 |
![]() 二之丸御殿 |
![]() 二之丸御殿 |
![]() 二之丸土塁 |
![]() 二之丸御殿 |
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![]() 二之丸 台所井戸跡 |
![]() 二之丸土塁 |
![]() 武器庫 |
![]() 竹之丸 |
![]() 竹之丸土塁 |
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![]() 十露盤堀 |
![]() 本丸御門跡 |
![]() 太鼓櫓 |
![]() 本丸跡 |
![]() 本丸跡 |
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![]() 本丸腰櫓跡 |
![]() 天守及び 天守下門 |
![]() 天守曲輪 |
![]() 腰曲輪跡 |
![]() 銀杏下御門跡 |
![]() 松尾池跡 (現逆川) |
![]() 三之丸跡 |
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