帝國博物学協会
駿河國
興国寺城
 所在地 静岡県沼津市根古屋
 交通機関 JR東海道線 原駅下車 徒歩30分
 別  名 杜若城・久窪城・深田山城・高国寺城
 略  歴 興国寺城の築城時期は不明であるが、伊勢新九郎長氏(北条早雲)が築城したと言われている。
長氏は、駿河守護今川義忠の側室であった妹を頼って今川氏に身を寄せていた。
文明8(1476)年、義忠の死去後に発生した跡目争いでは、妹の子氏親の相続を後押しした。
長享元(1487)年、小鹿範満を討って氏親の相続に成功した長氏には、恩賞として富士郡上方荘・下方荘を与えられ興国寺城を築城、城主となった。
長氏は、この城を拠点に伊豆を攻略、延徳3(1491)年には、韮山の堀越公方、足利茶々丸を滅ぼして伊豆国を平定、居城を韮山城に定め、興国寺城には家臣冨永政家を入れた。
更に明応4(1495)年、小田原城の大森藤頼を計略で追うと、居城を小田原城に定めた。
その後、氏長は今川氏に興国寺城を返却したが、天文5(1536)年、二代氏綱は甲駿の和睦を脅威として駿東に進出し、興国寺城を奪回、家臣青地弾正を入城させた。
天文14(1545)年、今川義元は、北条氏に奪われた駿東を奪還、興国寺城は再び今川氏の支配下に入った。
義元は、境目の城としての興国寺城を重要と見て改修を命じ、現在見られるような大規模な城として整備した。
天文20(1551)年、駿東の支配を目論む北条氏は、再度出兵、一時的に興国寺城は北条氏の支配下に置かれたが、義元によってすぐに最奪還されている。
天文23(1554)年、甲相駿三国同盟が成立すると、しばしの間の平穏がこの城に訪れた。
この平穏が破られたのは、永禄11(1568)年、武田信玄の駿河侵攻が始まった時であり、武田氏に呼応した北条氏政は駿東に軍を進め、興国寺城を奪取、城将として垪和氏続を入れた。
元亀元(1570)年、越相同盟で上杉氏と同盟を結び、武田氏との敵対を表明した北条氏の支配する駿東郡の制圧を期する武田信玄は、興国寺城、韮山城を攻撃したが、攻略できなかった。翌元亀2(1571)年、再び武田軍は興国寺城を攻撃したが、撃退されている。
元亀2(1571)年、甲相和睦が成立すると、駿河・伊豆国境をその境とし、駿河に置かれた武田氏家臣、穴山信君の城代として、保坂掃部、向井正重、曽根正清が入城した。
天正10(1582)年、武田勝頼が天目山で自刃し、武田氏が滅亡すると、駿河は徳川氏の支配下に組み込まれたため、城将曽根正清は開城、興国寺城には牧野康成が入城した。その後、松平清宗・家清父子がこの地を治め、城代として稲垣長茂が入城した。
天正18(1590)年、小田原征伐後、家康は関東に移封となり、かわって中村一氏が駿府城主として入封すると、興国寺城には河毛重次が城主として入城した。
慶長5(1600)年、関ヶ原合戦で東軍が勝利すると、中村氏は伯耆米子城に転封し、翌慶長6年には天野康景が1万石を領して入封した。
慶長12(1607)年、家来の足軽が、城の修築用の資材を盗もうとした盗人を殺害した。これが天領の農民であった事から、代官井出正次と争いになった。   康景は、この足軽をかばって正次に渡さず、逐電したため、怒った家康によって天野氏は改易になり、興国寺城は廃城となった。
 現  況 城は舌状台地の突端に作られており、連格式に築かれている。
三之丸・二之丸は、残念ながらかなり破壊されており、曲輪の境の土塁なども、破壊されている。
本丸北側の土塁や、伝天守台の石垣はよく残されており、背後の大堀切は見ごたえがある。
北曲輪背後の台地と切り離す堀切には、東海道新幹線が堀底を通っており、かなり深く堀切っていたと想像される。
東の台地上の清水曲輪は、茶畑となっており、遺構らしき物は残されていない。
なお、現在復元工事・発掘作業が実施されており、復元予想図が根古屋信号付近に掲示されている。
三之丸

三之丸水濠
の弁天

南端切岸

三之丸跡

三之丸跡

三之丸跡より
本丸を望む

三之丸

三之丸
東側土塁
清水曲輪
伝東船着場

清水曲輪遠望

清水曲輪

三之丸東側
と伝東船着場

水濠跡と
伝東船着場

水濠跡
二之丸
伝西船着場

伝西船着場

二之丸切岸

二之丸切岸

二之丸切岸

二之丸切岸

二之丸跡と
石火矢台

二之丸跡

二之丸跡

二之丸跡

本丸切岸

北曲輪・本丸
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