帝國博物学協会
遠江國
馬伏塚城
 所在地 静岡県袋井市岡山字今城
 交通機関 JR袋井駅下車 しずてつジャストラインバス 大庭下車 徒歩5分
 別  名 爬塚城
 略  歴 馬伏塚城の築城時期はよく判っていないが、室町中期頃には既に砦があったと思われる。
文明5(1473)年に懸革荘が足利義政から今川義忠に与えられ、遠江進出を狙う今川氏の橋頭堡となった。
文亀元(1501)年、駿河国守護今川氏親と遠江守護であった斯波氏が遠江の覇権を巡って激突したが、斯波氏が敗れて今川氏の勢力が伸張した。
こした中、三輪、岡崎、清ヶ谷、横須賀の四郷を今川氏から与えられて馬伏塚城に入城したのが小笠原長高であると伝えられている。
高天神小笠原家譜には、長高は信濃府中小笠原氏15代貞朝の長子であったが、父貞朝が次子長棟に家督を継がせようとしたために不和となり信濃を出奔、三河吉良氏を頼った。
長高は吉良義尭の女を娶って吉良氏の一家となったが、妻と長男を伴なって今川氏へ仕え、馬伏塚城を与えられたと記されている。
しかし、信頼できる資料には長高という名はなく、遠江小笠原氏が史料に登場する初名は小笠原右京進春茂である。
いずれが正しいかを軽々に判断する事はできないが、応仁の乱の際に今川義忠の軍に小笠原氏の名が見えることから、信濃小笠原氏の一族であるとしても、もっと早い段階で別れた支流ではないかと考える事もできそうである。
花倉の乱では、春茂は栴岳承芳(義元)に味方し、福島正成の高天神城を攻め落した功により、高天神城を与えられて二城の城主となった。
今川義元が桶狭間合戦で討死し、嫡男の氏真が後を継ぐと、今川氏の勢力にも陰りが見えてくる。
三河で独立した徳川家康が三河を統一し遠江を伺うだけではなく、北からは武田信玄が駿河・遠江に圧力を加えてくる事となった。
その頃本城を高天神城に移していた氏興(氏清)は、永禄11(1568)年、遂に今川氏を見限り徳川氏に服する事とした。これにより、馬伏塚城も徳川氏の勢力に組み込まれた。
天正2(1574)年、氏興の嫡男長忠(氏助)は、武田勝頼の猛攻に高天神城を開城してこの地を去ったため、馬伏塚城は家康が接収するところとなった。
家康は家臣の大須賀康高を城主に命じて高天神城攻略の拠点として城の大改修を行なった。
天正6(1578)年、康高は更に高天神城の近くに横須賀城を築城して城主として移ったため、天正8(1580)年、新たにその後詰の城として高力清長が入城した。
天正9(1581)年、高天神城が徳川軍の攻撃で落城すると、馬伏塚城の重要性は失われたため、翌天正10年、清長は駿河田中城に移されて馬伏塚城は廃城とされた。
 現  況 城址は本丸付近の土塁と空掘が、諏訪神社とその周辺に辛うじて残されているが、多くは圃状整備によって失われて田圃となっている。
諏訪神社の建つ所は少し高い土塁となっており、櫓台であったと考えて良いであろう。
案内板には現在の地形との対比図も記されている。
切通しとなっている本丸土塁断面は圧巻である。

馬伏塚城址遠望

馬伏塚城址遠望

馬伏塚城址北側

馬出し

神曲輪空堀

神曲輪南側

本丸北側土塁

本丸北側土塁
と空堀

切通し

本丸北側土塁
(郭内側)

馬伏塚城跡
石碑

北東側櫓台

東側土塁

諏訪神社境内

諏訪神社

諏訪神社前
東側土塁
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