帝國博物学協会
伊豆國
韮山城
 所在地 静岡県静岡県伊豆の国市韮山町韮山
 交通機関 伊豆箱根鉄道 韮山駅下車 徒歩25分
 別  名 龍城山城
 略  歴 韮山城の築城は、「北条五代記」には文明年間(1469〜1486)の頃と言われており、堀越公方足利政知の家臣、外山豊前守が築城したとされている。
韮山城が歴史の表舞台に登場するのは、駿河興国寺城の伊勢新九郎長氏(北条早雲)が、延徳3(1491)年、堀越御所足利茶々丸を伊豆を支配した時である。
長氏は、韮山城を本格的に築城し、本拠とし、ここから小田原城を攻め取り、関東への足がかりとした。
早雲は、永正16(1519)年8月15日、88歳で没するまでこの城に居城し、死後早雲寺に葬られた。
早雲の死後、北条氏は韮山城に伊豆衆を入れて守らせた。
永禄の頃には、氏康の四男氏規を入城させ、駿河に進出した武田氏に備えた。
天正18(1590)年、豊臣秀吉による小田原に陣が発せられると、韮山城主氏規は、総勢3600であったが、前線の泉頭城から兵を撤収し、韮山城に集中させて防御に徹した。
これに対して、豊臣軍は織田信雄・細川忠興・蜂須賀家政・福島正則ら44000の大軍で包囲した。
戦いは、寡兵の北条軍が、天嶮の要塞に籠ってよく守り、予想に反してなかなか落城しなかった。そのため、徳川家康は朝比奈泰勝を使者として降伏を勧め、氏規も小田原城が包囲されている状況を如何ともし難く、家康に投降し、韮山城は開城された。
その後、韮山城には家康の家臣、内藤信成が1万石で入城した。
韮山城が廃城になったのは、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦の後で、信成が駿府城4万石に加増・転封した時である。
 現  況 韮山城は、韮山高校の裏山、龍城山に存在する。韮山高校がある場所は、御座敷と呼ばれており、往時は居館があったと考えられる。
三之丸には韮山高校のテニスコートが置かれているが、周囲には数メートルの高さに及ぶ土塁が残されている。
権現曲輪の神社建立地は櫓台であったと考えられ、ここにも虎口が置かれていたと考えられる。
権現曲輪から登城路を上ると、二郭に至る。ニ郭は、北・東・南に土塁を構え、北西に虎口を開いている。
背後は主郭が控えており、ニ郭と主郭の間には、横堀とそれに続く竪掘が配されており、主郭下の帯郭とは、土橋で繋がっている。
現在は、帯郭から直接主郭に登る階段が配されているが、勿論往時はこのような階段は無く、主郭に横腹を晒しながら、一番奥の郭(弾薬庫の様な造り)に向かわなければならない。
この、弾薬庫の様な郭までは、主郭から続く通路が、常に上から狙っているような構造となっている。
弾薬庫の様な郭は、土塁に囲まれた方形を、2つ連続して造った様な造りとなっており、この土塁を登って初めて、主郭から続く通路に出る事が可能となる。
ここから主郭へは、通路を戻る方向へ向かう。
主郭は、直径20mほどの円形の郭で、北東側に土塁が残されている。往時は、土塁上に物見櫓が建っていたと考えるのが妥当であろう。
郭外

城池対岸より
韮山城址を望む

城池対岸より
韮山城址を望む

堀切

韮山城跡
案内板
三曲輪

三曲輪虎口
土塁

三曲輪虎口

三曲輪虎口

三曲輪虎口

三曲輪土塁

三曲輪土塁

三曲輪土塁

三曲輪土塁

三曲輪土塁

三曲輪土塁

三曲輪土塁
権現曲輪

権現曲輪虎口

権現曲輪虎口
内側

堀切

東側虎口

櫓台土塁

櫓台上の神社

櫓台上の土塁

権現曲輪

権現曲輪内

権現曲輪土塁

権現曲輪
ニ曲輪

ニ曲輪への
登城路

ニ曲輪への
登城路

ニ曲輪土塁

ニ曲輪虎口

ニ曲輪土塁

櫓台土塁

ニ曲輪郭内

ニ曲輪背後の
空掘

ニ曲輪背後の
空掘〜竪掘

空掘の土橋
一曲輪

一曲輪切岸

一曲輪横矢

一曲輪切岸と
帯曲輪状の道

帯曲輪状の道

横矢通路
(右の土塁上より
横矢が掛かる)

横矢通路
(右の土塁上より
横矢が掛かる)

横矢通路と
塩蔵土塁

塩蔵虎口

塩蔵土塁上から
横矢通路を望む

塩蔵

塩蔵虎口

塩蔵土塁

塩蔵土塁

塩蔵土塁

横矢通路上

横矢通路上

横矢通路上

一曲輪虎口

一曲輪虎口から
横矢通路を望む

一曲輪虎口

一曲輪土塁

一曲輪
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