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| 所在地 | 静岡県静岡市駿府公園ほか |
| 交通機関 | JR東海道新幹線 静岡駅下車 徒歩15分 | 別 名 | 府中城・静岡城・今川館・府中館 |
| 略 歴 |
応永6(1399)年、駿河守護今川泰範が守護所として館を築いたのが始まりとされ、以後今川氏の本拠として栄えた。 この館を中心として、駿府は「東国の京都」と称される程に栄えたが、桶狭間の合戦で、今川義元が敗死すると、嫡男氏真が凡庸であったために家勢が傾き、武田軍の侵攻が始まると、氏真は館を捨てて、家臣の守る掛川城に逃亡した。 そのため、さしもの繁栄を誇った駿府の町も兵火に焼かれた。 武田氏は、穴山信君に駿河の経営を任せた。信君は焼亡した府中館を廃し、江尻城を居城と定めたため、駿府は荒廃した。 天正10(1582)年、武田勝頼が天目山で自刃し、武田氏が滅亡すると、駿河は完全に徳川氏の支配下に組み込まれた。 天正13(1585)年、家康は、かつて人質時代を過した府中の地に築城を開始し、本拠を浜松城から駿府城に移した。 天正18(1590)年、小田原の陣後、家康は武蔵江戸城に移封となり、かわって中村一氏が駿府城主として入封した。 慶長5(1600)年、関ヶ原合戦で東軍が勝利すると、中村氏は伯耆米子城に転封し、翌慶長6年には内藤信成が4万石を領して伊豆韮山城から入城した。 慶長11(1606)年、内藤氏は近江長浜城4万石に移封となった。 慶長12(1607)年、家康は隠居城として駿府城に入ると、諸国の大名に命じて城域拡張と天守・御殿の新築工事を行い、一応の完成を見たが、12月に発生した火災で天守・御殿とも焼失したため、あらためて再建工事を実施した。 家康は、元和2(1616)年に没するまで、駿府城で大御所政治を行ったが、この間、慶長14(1609)年には、家康の第十子・徳川頼宣を駿府城主としている。 元和5(1619)年、頼宣は紀州和歌山城主として移封し、後の御三家紀州家の初代となった。 寛永元(1624)年、二代将軍秀忠の次子・徳川忠長が55万石の大封を得て、駿府城主として入城、駿河大納言と称された。しかしながら、寛永8(1631)年、忠長は乱心(行状宜しからず)とされ改易と蟄居を命じられ、駿府城は幕府管理となった。 寛永9(1632)年以降は、駿府城代が置かれ、幕府直轄として明治維新を迎える。 慶応4(1868)年、大政奉還を行い、江戸城を官軍に開城した徳川慶喜は、家督を養嗣子の徳川家達に譲り、家達が駿府城に入り静岡藩を立藩する。 翌慶応5年、廃藩置県によって家達が東京に移ると廃城となり、明治22(1889)年に静岡市に払い下げられた。 |
| 現 況 |
城は輪郭式縄張りの典型例であるが、明治29(1896)年に陸軍歩兵第三十四連隊がその根拠地とするに際し、本丸の石垣は崩され、堀は埋められ、城郭施設は全て取り壊された。 外堀は、東面の全てと、南西角が失われているものの、大部分は残されている。 中掘は、ほぼ完全な姿で残されているが、二之丸大手にあたる二之丸御門は埋め立てられ、代わって別の場所に入り口が設けられている。 内堀は一旦完全に埋め立てられたが、東南角部分と水路付近の部分が発掘されている 平成元(1989)年に、二之丸巽櫓が復元され、続いて平成8(1996)年に、二之丸東御門が復元され、資料館として公開されている。 なお、現在坤櫓の復元工事が実施されており、櫓台石垣の積み直し作業が実施されている。 |
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(三之丸) |
![]() 西側石垣と水濠 |
![]() 西側石垣と水濠 |
![]() 西側出隅石垣と 水濠 |
![]() 西南側石垣と 水濠 |
![]() 西南側石垣と 水濠 |
![]() 中掘 |
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