帝國博物学協会
駿河國
山中城
 所在地 静岡県三島市山中新田
 交通機関 JR東海道新幹線 三島駅下車 沼津箱根登山バス 山中城下車 徒歩1分
 別  名 -
 略  歴 永禄(1558〜69)年間、武田氏が駿河に侵攻すると、北条氏康は、武田氏の侵攻に備えて、本城小田原城西の守りの要として築城された。
北条氏政は、徳川氏・織田氏と友好関係を築き、家康の娘督姫を嫡男氏直の嫁として娶った。
天正17(1589)年、豊臣秀吉との関係が悪化すると、急遽山中城の拡張・整備を実施した。
天正18(1590)年、秀吉から小田原征伐が令された。秀吉は、3月27日に沼津に着陣した。
長久保城の軍議で、山中城方面には羽柴秀次を総大将とし、徳川家康、堀秀政、堀尾吉晴、山内一豊、中村一氏、一柳直末、田中吉政ら、七万の軍勢をもって攻略することと決まった。
山中城では、城将北条氏勝を中心に、着々と城の整備に励んだが、攻城前日の28日になっても、完成には至らなかった。
29日未明、堀秀政率いる右翼二万が、新築された岱崎出丸に攻撃を仕掛けて、山中城攻防戦は開始された。城代北条氏勝は、開戦前に城を脱出し、玉縄城へ向かったため、松田康長が代って指揮をとった。
攻城戦は一進一退を繰り返したが、徳川家康率いる左翼三万が西櫓・西之丸を奪取した。
それに呼応するかのように、岱崎出丸が落ち、援軍の間宮康俊が討死、攻撃側の一柳直末も討死する中、遂に三之丸まで攻城軍が攻め込んだ。
城兵四千は奮戦したが、東海道が城内三之丸を通過しており、本丸が東海道に面して造られていたという、構造上の問題もあり、1日の攻防戦で落城、城将松田康長も戦死した。
城はこの戦の後、廃城となった。
 現  況 山中城は国指定史蹟となっており、戦国末期の北条流築城術の粋を集めて築城された、中世山城の遺構を、よく伝えている。
城は、現在の国道一号線(旧東海道)により、東の岱崎出丸部分と、本城域に大きく分断されている。
岱崎出丸は、東海道に向かって横矢を掛ける位置に築かれており、三之丸を側面から支援する位置にある。
出丸先端には擂鉢曲輪と呼ばれる曲輪が存在する。この曲輪は、名前の通り擂鉢状を成しており、周囲を円形に土塁が巡っている。
中央に位置しているのが岱崎曲輪で、西側に二基の櫓台が置かれている。この曲輪を造成中に、豊臣軍の攻撃を受けた事が、造成中の緩斜面が残されている事からも、よくわかる。
その北側に位置しているのが、御馬場曲輪で、往時は厩が置かれていたと考えられる。
その北側の曲輪には名前がないが、かなり広い曲輪で、攻勢時には兵を備える目的で置かれたものと考えられる。
本城域では、西櫓・西之丸付近に畝掘・障子掘が良く残されている。
元西櫓から北條丸(二之丸)への虎口は、良好に残されており、複雑な虎口の様子を知る事ができる。
本丸・北之丸は、良く整備されており、天守台と呼ばれている櫓台も、良く遺構を残している。
岱崎出丸
擂鉢曲輪

擂鉢曲輪

擂鉢曲輪虎口

擂鉢曲輪西側
土塁

擂鉢曲輪西側
土塁

擂鉢曲輪虎口

擂鉢曲輪南側
土塁

擂鉢曲輪虎口

武者隠し

擂鉢曲輪虎口
前より岱崎曲輪
を望む
岱崎出丸
岱崎曲輪

造成中の曲輪

岱崎曲輪東側
帯曲輪

岱崎曲輪虎口

造成中の曲輪

岱崎曲輪東側
通路

御馬場北掘

御馬場曲輪
西側帯曲輪

出丸御馬場堀

岱崎曲輪中櫓台
と西側土塁

岱崎曲輪中櫓台

西側畝堀

西側畝堀

擂鉢曲輪見張台
と土塁

擂鉢曲輪見張台

西側畝堀

擂鉢曲輪見張台
と富士山

岱崎曲輪中櫓台
と西側土塁

東側帯曲輪

擂鉢曲輪見張台

擂鉢曲輪見張台
(東側)
岱崎出丸
御馬場曲輪

北側境の土塁

御馬場曲輪下
の通路

御馬場曲輪東
の土塁

北側境の土塁

西側の土塁

山中城跡碑

西側の土塁

御馬場曲輪内

御馬場曲輪内

御馬場曲輪
南東下の通路

御馬場北掘
(畝掘)
岱崎出丸
虎口曲輪

旧東海道

岱崎出丸虎口

岱崎出丸虎口

曲輪内

虎口付近の土塁

虎口曲輪土塁

曲輪内

曲輪内

曲輪内

曲輪内

曲輪内

主城部
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