帝國博物学協会
播磨國
赤穂城
 所在地 兵庫県赤穂市加里屋
 交通機関 JR赤穂駅下車 徒歩15分
 別  名 加里屋城
 略  歴 文正元(1466)年〜文明15(1483)年頃、播磨守護赤松満祐の一族岡光広この地に築城し、刈屋城と称したのが赤穂城のはじまりと言われている。
刈屋城は、赤松氏の勢力が衰退すると、一時期備前・備中の宇喜多氏の勢力下に入った。
慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いに敗れた宇喜多氏は改易となり、姫路城に池田輝政が封じられると、弟長政が刈屋城に入城し、大鷹城と称した。
元和元(1615)年、池田政綱が岡山藩より3万5千石を与えられ、赤穂藩が成立した。
正保2(1645)年、赤穂藩池田氏2代輝興が改易されると、常陸笠間城より浅野長直が5万3千石で入城した。
長直は、慶安元(1648)年、特に幕府の許可を得て新城の築城に着手した。
赤穂城の築城は、実戦経験に基づくものではなく、当時流行の甲州流軍学者の近藤正純の縄張りに、山鹿流軍学の祖山鹿素行の意見を取り入れた、軍学者による初めての築城であった。
赤穂城の築城は、53000石の身代には重荷であったためか、天守をはじめ、櫓は櫓台のみで何基かの櫓は建築することができなかった。
浅野家では作事できなかった櫓の櫓台を「横矢桝形」なる名称で呼ぶ事にして、寛文元(1661)年、一応の完成とした。
浅野家はその後長友・長矩と続き長矩の時、元禄14(1701)年、天下に有名な松の廊下刃傷事件が起こる。
浅野家は改易、城は龍野城主脇坂安照預かりとなった。
翌寛文2(1701)年、下野国烏山城より永井直敬が3万3千石で入封した。
宝永3(1706)年、直敬は信濃飯山城に転封となり、替わって備中西江原より森長直が2万石で入封した。
赤穂藩は、以後森氏13代によって治められ、忠儀の時に明治維新を迎えた。
 現  況 城址は国指定史跡に指定されており、赤穂市も積極的に城址の復元に務めている。
本丸は大手門、厩口門が復元されており、御殿跡は間取りを示している。
また、現在は二之丸庭園の復元工事が実施されている。
現在残されている建物は、大石大石内蔵助邸長屋門、近藤源八邸長屋門である。
郭 外

中洲惣門跡

中洲惣門跡

中洲惣門跡外
(現加里屋川)

蔵屋敷跡

舟入跡
三之丸

大手門隅櫓

大手隅櫓と
大手門

三之丸北側
水濠と石垣

三之丸北西
横矢桝形

三之丸東石垣

三之丸東石垣

三之丸東横矢
石垣

野里門北側
石垣

野里門跡

野里門
ニ之門跡

赤穂城址碑

西隅櫓櫓台
石垣

西隅櫓櫓台
石垣

大手一之門跡

番所(復元)

大手ニ之門

東側北面石垣

東隅櫓櫓台
石垣

東面石垣と
水濠

東面石垣と
水濠

清水門跡

清水門跡

干潟門跡

南側石垣

南西隅櫓
櫓台石垣

西面石垣と水濠

西面石垣と水濠
家臣屋敷(義士屋敷)

大野九郎兵衛
邸跡

間瀬久太夫宅跡

礒貝十郎
左ェ門宅跡

神尾専右衛門
屋敷跡

寺井玄渓屋敷跡

鈴田重八屋敷跡

大石内蔵助邸
長屋門

大石内蔵助邸
庭園

近藤源八邸
長屋門

奥野将監定良
屋敷跡

坂田式右衛門
屋敷跡

片岡源五右衛門
高房屋敷跡

ニ之丸
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