帝國博物学協会
播磨國
茶臼山城
 所在地 兵庫県赤穂市坂越
 交通機関 JR赤穂線 坂越駅下車 神姫バス 坂越港下車 徒歩30分
 別  名 -
 略  歴 但馬の山名宗全が、嘉吉の乱で滅んだ赤松氏に変わって播磨を支配した時、この城に拠ったと言われている。
宗全は、この城から播磨の赤松氏残存勢力を壊滅させるために指揮を執ったが、康正元(1455)年、逆に赤松一族の教康・則尚が、播磨奪回のためこの城を攻めたといわれる。
宗全はこれらの勢力を逆に滅ぼし、播磨に確固たる勢力を築くかに思われたが、応仁元(1467)年に勃発した応仁の乱で播磨の支配を再び赤松氏に奪われて、この地から撤退している。
 現  況 茶臼山城址は坂越浦城裏手の道を登るとたどり着く。
現在はNHKの中継塔が建っており、往時の面影を見る事はできない。
この城に登る途中に、多くの歴史遺構が残されている。

児島高徳墓
南北朝期の南朝の大忠臣とされる児島高徳は、後鳥羽天皇の玄孫、頼宴大僧正の子(和田範長という説もある)として生まれた。
元弘2(1332)年、元弘の変に敗れて隠岐に流される事になった後醍醐天皇の奪還を試みるが失敗し、天皇に「天莫空勾践、時非無范蠡」という漢詩を贈ったとされる。
翌年、後醍醐天皇が船上山で挙兵した際には馳せ参じて戦功を上げたとされる。
建武2(1335)年、足利尊氏が後醍醐天皇に叛旗を翻すと、新田義貞・宗良親王らと各地を転戦するが、その間に義父・和田範長らを失っている。

和田備後守範長一族の墓
児島高徳の父(義父)とされる和田範長は、元弘3(1333)年、後醍醐天皇が船上山で挙兵した際には、児島高徳と共に馳せ参じて戦功を上げたとされる。
建武2(1335)年、足利尊氏が後醍醐天皇に叛旗を翻すと、その誘いを断り各地を転戦、天皇方の脇屋義助と合流するため坂越浦まで到着した。
熊山城の合戦で傷ついた高徳を妙見寺の僧に託し、追っ手の赤松円心勢と十数回の合戦の末阿弥陀が宿の辻堂で、延元元(1336)年4月22日、一族5名と共に自害した。
その5名の墓がこの地で発見されたもので、現在は新しい五輪塔が奉納されている。
墓は、左から和田備後守範長、今木太郎範季、今木次郎範仲、中西四郎範顕、松崎彦四郎範代。


児島高徳墓

宝珠山妙見寺

奥の院

茶臼山城址
案内板

和田備後守
範長墓所碑

和田備後守
範長墓

茶臼山城主郭

登城道

主郭付近

本来の登城道

茶臼山城址

茶臼山城址
より筆島を望む

茶臼山城址より
赤穂方面を望む

茶臼山城址遠望
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