帝國博物学協会
播磨國
福原城
 所在地 兵庫県佐用郡佐用町大坪字福原
 交通機関 JR姫新線 または 智頭鉄道 作用駅下車 徒歩20分
 別  名 作用城
 略  歴 元弘3(1331)年、久我畷の戦いで鎌倉方の総大将名越高家を打ち取った佐用範家が築城したといわれており、築城後、作用構から本拠を移している。
播磨に赤松氏が勢力を伸張すると、この城には赤松三十六家の福原氏が入城した。
福原氏は上月氏の支流で、上月景盛の孫景行が福原氏を称したことに始まる。
景行は、嘉吉元(1441)年、嘉吉の乱で京都で討死している。
天正5(1578)年、織田氏の播磨侵攻で、城主福原藤馬允則尚は、秀吉とは知己の間柄であったが、室が上月城の赤松政範の妹であった事、父則高が毛利方であった事から、秀吉の誘いを断って対決するに至った。
羽柴勢先鋒を務めた竹中重治、黒田孝高の三千余騎の軍は、則尚の妹婿、福原助就が守将であった高倉山城を撃破、助就は討ち取られた。
則尚は弟の範仲を釜須坂の救援に向けたが、既に守将の別所定道が降伏していたため、却って範仲が討死する結果となってしまった。
則尚は高倉山城の奪回を断念し福原城に火をかけて自害して果てた。
これにより、福原城は廃城となった。
 現  況 福原城本丸跡は国道175号線から西に少し入った位置にある。国道には案内板があるので、間違う事はない。
本丸西側の土塁上に福原霊社が祀られており、そこに「作用城(福原城)」と城址を示す案内板がある。
本丸西側には山から続く尾根を分断する堀切があり、今はそこが堀底道になっている。
本丸西・南・東側にかけて半円状に郭が広がり、北側郭と本丸の間には、堀跡と思われる窪地が存在している。

福原城主郭遠望

福原城主郭

主郭切岸

土塁と堀切

福原霊社

主郭土塁

主郭

北側土塁

東側郭切岸

北側郭

堀跡

虎口

主郭先端

主郭土塁

土塁と虎口

南側郭
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