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| 所在地 | 兵庫県三木市平井 |
| 交通機関 | 神戸電鉄粟生線 恵比須駅下車 徒歩30分 |
| 別 名 | - |
| 略 歴 |
平井山本陣は、天正(1577)年、織田信長から中国方面軍の司令官を命ぜられた羽柴秀吉が、三木城攻撃の際に本陣を置いたところである。 平井山からは、三木城本丸が一望に見渡せるため、秀吉はここで三木城の備えを見ながら、指揮を執ったのである。 また、この頃から茶会の開催を許された秀吉は、天正6(1578)年10月15日に、この陣で初の茶会を開いている。 天正7(1579)年2月、三木城に籠る別所方は、このままなす術も無く、兵糧が減りつづける事に対する怖れと、事態打開のために、強硬派である別所吉親の策を採用して、平井山本陣を急襲することとなった(平井山合戦)。 この戦いに投入した別所方の兵力は2500とも3500ともいわれている。 しかし、この行動は、平井山の秀吉本陣からは丸見えであったため、秀吉は有効な対策を行い、別所軍を撃退した。この戦いでは、長治の弟別所小八郎治定が後陣として参加していたが、敗戦により討死している。 なお、三秀吉の軍師といわれた竹中半兵衛重治は、以前から胸を病んでいたが、この合戦中に病状を悪化させたため、京の都で療養をしていた。 しかし、戦況が膠着すると、病を押して平井山の本陣に帰陣、秀吉に協力したが、天正7(1579)年6月13日、この陣所で病没し、近くに葬られた。 秀吉は、半兵衛の死に「お先まっくら」といって人前もはばからず遺体にとりすがったという。 |
| 現 況 |
平井山本陣は、平井観光ぶどう園の東側、平井山の頂きにある。 立地としては、平井山山麓の三木城側に多くの池が存在しており、天然の堀を形成していたと考えられる。 本陣の周りは、高さ数十センチの土塁が方形に廻っている。後方は断崖絶壁になっており、後方の守りは完璧である。 陣の広さは、「小さい!」と思わず叫んでしまったほどで、幔幕を土塁上に張ると、本陣部分だけがそこに出来上がるといった感じである。 この本陣から、三木城址が小さく見えており、確かに城内の兵力の動きは、感じる事が可能と思われる。 |
![]() 平井山本陣址 |
![]() 案内板 |
![]() 北側土塁 |
![]() 西側(入口) 土塁 |
![]() 東側絶壁 |
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![]() 東側絶壁 |
![]() 北側土塁 |
![]() 北側土塁 |
![]() 西側土塁 |
![]() 本陣への道 |
![]() 通路から 本陣を望む |
![]() 腰曲輪状の 平場 |
![]() 本陣入口 |
![]() 皿池越しに 平井山を望む |
| 竹中半兵衛墓所 |
![]() 竹中半兵衛墓所 入口 |
![]() 竹中半兵衛墓所 |
![]() 説明版 |
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