帝國博物学協会
播磨國
鶏籠山城
 所在地 兵庫県たつの市龍野町北龍野
 交通機関 JR姫新線 本龍野駅下車 徒歩50分
 別  名 龍野古城/朝霧城
 略  歴 鶏籠山城がいつ築城されたか明確な資料は残されていないが、明応8(1499)年、赤松村秀の時の事であるとされている。
その後およそ78年に渡って、赤松氏4代が城主を務めていた。
村秀は置塩城の赤松惣領家が内紛続きで衰え、家老の浦上村宗に乗っ取られそうになっっているのを助けていたが、浦上氏の本拠室山城攻略中に毒殺されてしまった。
村秀の嫡子政秀も、父の意思を継ぎ、赤松惣領家の晴政を助け、よく領内を固めていた。
赤松氏の支配に終止符が打たれたのが、天正5(1577)年、織田信長の命を受けた羽柴秀吉の播磨侵攻の時のことである。
城主赤松広英は、羽柴軍と矛を交えることなく降伏した。広英は、引き続き城主の地位にあったが、天正10(1582)年、中国攻めの功で但馬竹田城に転封となった。
鶏籠山城には天正9(1581)年、蜂須賀正勝が5万3千石で入封した。天正13(1587)年、正勝は阿波徳島城に転封し、福島正則が城主になった。
天正15(1589)年、正則は伊予今治城に転封となり替わって木下勝俊が城主になった。
文禄3(1594)年、勝俊は小田原の陣での戦功で、若狭小浜城へ転封となった。
替わって小出吉政が城主になったが、翌年丹後出石城へ転封となった。
慶長5(1600)年、関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は、播磨姫路城に娘婿である池田輝政をいれた。このため龍野城は池田領内の出城として存在した。
元和3(1617)年、池田氏に代わって本多氏が姫路に入ると、上総大多喜城から本多政朝が5万石で入封したが、本家の当主忠刻の死で姫路城に移った。
政朝は、山城であった鶏籠山城の根小屋を整備して、居城したとされている。
翌寛永4年、小笠原長次が6万石で入封したが、寛永9(1632)年に豊前中津城に転封となった。
翌寛永10年、岡部宣勝が美濃大垣城から5万3千石で入封した。
3年後の寛永13(1636)年、宣勝は摂津高槻城に転封した。
翌寛永14年、出雲松江城から京極高和が6万石で入城した。高和は万治元(1658)年、讃岐丸亀城に転封になった時、幕府の許可を得て城はもとより家臣屋敷に至るまで破却し、資材を丸亀に運んだと言われている。これにより鶏籠山城は廃城になった。
 現  況 城址は龍野城裏手から登るルートと、紅葉谷を抜けて裏側から登るコースの2つのコースがある。
城址を楽に見学できるのは、紅葉谷コースであるが、戦国の厳しさを味わいたいのであれば、大手道といわれる龍野城裏手からの登城コースがお奨めである。
大手道に入ると、すぐに土塁による虎口が出迎えてくれる。虎口を抜けて少し登ると、数段にわたる平場が存在している。
平場を抜けると谷を越え物見台の置かれていた平場に出る。そこから急斜面を登りきると、土塁・横掘のある平場にたどり着く。
この平場も何段かに渡っており、道はその脇を抜けている。この平場群を抜けた先に石垣の残骸と虎口が存在している。この虎口を登りきると、最初のピークである二之丸跡である。
一旦そこを下り、再度登りがある。つづらおれの道を登ると、やはり石垣石の残石が転がり始める。 ここを抜けた先に虎口跡があり、その向こうが本丸跡である。
本丸を抜けるとその裏側に八幡宮跡があり、参道の石畳も存在する。
石畳を抜けると、そこに比較的良好に残された石垣が見られる。
石段を抜け、緩やかな坂を下っていくと、紅葉谷に到着する。ここには番所の跡や、家臣屋敷のあとがある。
有事の際には、この家臣屋敷が防御線となっていたと思われる。

鶏籠山城遠望

山麓の土塁

大手道

山麓虎口

山麓土塁

山麓土塁

山麓平場

山麓土塁

谷渡り部分

物見台跡

平場

平場

石塁

土塁と横掘

削平地

虎口と土塁

階段状の平場

土塁

大手道

削平地

土塁

削平地と土塁

大手道と土塁

削平地

平場から大手道
を望む

大手道

二之丸南側の
平場

二之丸南側の
平場

二之丸南側の
平場の切岸

二之丸石塁

二之丸

二之丸

二之丸

二之丸北側の
平場

二之丸北側の
平場

大手道

本丸下石塁

平場の石塁

本丸下の平場群

本丸下の平場

本丸下の平場

石垣基部と残石

石垣残石

本丸虎口

虎口石垣基部

本丸

本丸

龍野古城址碑

本丸

八幡宮跡

石垣隅石

八幡宮参道石畳

石垣隅石

古城石段と石塁

八幡宮下の道

八幡宮下残石塁

竪掘

紅葉谷道

鳥ヶ撓番所跡

鳥ヶ撓番所跡
井戸

侍屋敷の清水

鳥ヶ撓番所跡の
石塁

紅葉谷口
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