帝國博物学協会
播磨國
上月城
 所在地 兵庫県佐用郡佐用町上月
 交通機関 JR姫新線 上月駅下車 徒歩30分
 別  名 -
 略  歴 延元元(1336)年、赤松氏の一族で宇野播磨守太田入道山田則景の息、上月次郎景盛によって築かれた。
最初に城が築かれたのは、北側の大平山であったが上月氏在城のいつの頃かに、現在の荒神山に移された。
嘉吉元(1441)年、嘉吉の乱では上月景則は赤松氏に与したため、幕府軍から追討を受けて滅亡した。
上月氏滅亡後、播磨は山名宗全の支配下になっていたため、上月城にも山名氏の家臣が入城したと思われる。
以後、山名氏・赤松氏の攻防が繰り広げられたが、弘治3(1557)年、赤松政元が置塩城から入城した。
政元の息、政範は、佐用・赤穂・揖東・揖西・宍粟の五郡を領し、「西播磨殿」と呼ばれた。
天正5(1577)年、織田信長の中国攻めの大将、羽柴秀吉の攻撃を受けて上月城は落城し、政範は自害した。
秀吉は見せしめの為に城中の女子供200人を串刺しにして播磨・美作国境付近に晒した。今も地獄谷の地名が残されている。 秀吉は、城将として尼子氏復興を目指す、尼子勝久、山中鹿之助幸盛を入れたが、宇喜多直家の攻勢に撤退した。
直家は城将として上月景貞を入れたが、再び秀吉に攻められて落城、景貞は櫛田の山中で自刃して果てた。
秀吉は、再び上月城に尼子勝久・山中幸盛を入れて守らせた。
天正6(1578)年、毛利輝元は30000の大軍で上月城を包囲した。
すぐさま羽柴秀吉が救援の為に15000の兵を率いて高倉山に赴いたが、毛利方の兵の方が多勢のため、救援もままならなかった。
そうしている内に、三木城の別所長治が叛乱、毛利方に寝返った。
信長の三木城攻略の命を受けた秀吉は高倉山を撤退、孤立した勝久は毛利氏に降服し自害した。
幸盛も捕らえられ、護送中に備中高梁川の渡しで処刑された。
その後、上月城は廃城となった。
 現  況 城址はJR上月駅の南側の大平山の荒神山上にある。
近年城址の麓に上月城公園歴史資料館が整備されて、資料などを展示している。また、尼子勝久の供養碑・上月氏発祥の地碑なども建てられている。
城址には、大手・搦手の2つの登城道がある。大手道と称されている道は、主攻城線となっているため、険しく急な山道が続き、途中にある郭も小規模な郭ばかりである。
逆に搦手道は尾根筋に向かって登るため、比較的緩やかな道となっており、山上の郭も広いものが多い。
本丸には、赤松政範の供養塔が建っている。

大手口

大手道登城口

大手道

休郭

休郭虎口

休郭

休郭より本丸
方面を望む

休郭南の帯郭

休郭〜平場5

休郭〜平場5

平場5

堀切@下より
三之丸への階段

堀切@

三之丸

三之丸

帯郭

平場4への
階段

平場4

平場4

平場4と本丸
切岸

本丸

赤松政範供養塔

本丸

本丸

二位山城遠望

本丸虎口
(搦手方面)

本丸虎口

平場2

本丸虎口

二之丸

二之丸

二之丸

二之丸

利神城遠望

二之丸

二之丸虎口

平場1

平場1虎口

平場1と
二之丸切岸

堀切Aへの道

堀切A

堀切A北側

堀切A南側

堀切A上の
切岸

堀切B

堀切B

上月城遠望

上月氏発祥の地碑

尼子勝久追討碑
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