帝國博物学協会
播磨國
三木城
 所在地 兵庫県三木市上の丸町ほか
 交通機関 神戸電鉄粟生線 三木上の丸駅下車 徒歩5分
 別  名 釜山城・別所城
 略  歴 三木城は、明応元(1492)年【または文明3(1471)年】、別所則治によって築城されたと伝えられているが、それ以前にあった釜山城を改築したとも言われている。
別所氏は、播磨守護赤松氏の一族で南北朝期には東播磨の守護代職を世襲した一族である。
嘉吉元(1441)年、守護の赤松満祐が6代将軍足利義教を殺し(嘉吉の乱)たため、幕府から追討を受けると、別所則康は満祐に与して討死した。
則康の子則忠は伊勢で自害したといわれている。
則忠の子が則治である。
赤松氏は、嘉吉の乱で一旦滅んだが、家臣浦上則宗らによって再興された。しかし、赤松政則が山名氏との戦いで破れ、播磨から駆逐されてしまった。
則治は、主家の再興のため、応仁元(1467)年に東播に攻め入って、赤松氏の播磨支配復興に功績を挙げ、東播磨の守護代として勢力を誇るようになった。
その後の別所氏は、三木城を本城としたが、享禄3(1530)年、別所就治と依藤氏が対立し、依藤氏を支援した浦上村宗によって三木城は攻撃を受けて、陥落している。
そのため、別所氏は一時勢力を減退させているが、翌享禄4(1531)年には、浦上村宗が死んだため、その虚を衝いて三木城を奪還している。
天文22(1553)年、有馬月公が三好長慶の支援のもとに播磨に侵入、三木城を包囲したが、就治はこれを撃退、更に翌々弘治元(1555)年には、三好長慶自らが出陣して三木城を包囲したが、これをも撃退して、別所氏の東播支配は、確固たるものとなった。
天正5(1577)年、織田信長が中国支配に乗り出すと、時の城主別所長治は織田氏に味方し、織田氏の中国方面司令官羽柴秀吉に従って、播磨の諸将を説いて瞬く間に播磨攻略を完了させた。
翌天正6(1578)年、再度毛利攻めの軍を起した秀吉は、播磨の諸将を加古川城に招いて軍議を開いた。
この頃、別所氏の家中は、毛利氏に与する一派と織田氏に与する一派に分裂しており、長治がこの軍議に派遣した叔父の吉親は、毛利氏に与する一派であった。
吉親は、信長が総大将として派遣した秀吉を、成り上がり物として軽んじていたといわれており、この軍議でも自己の検索を用いる事を求めたが、悉く秀吉から退けられたため、恨みに思い長治に毛利に与するよう説いたといわれている。
長治は、吉親の策を受け入れて、秀吉に叛旗を翻し、三木城に籠城した。東播に勢力を持つ別所氏の離反は、東播諸将の動揺を誘い、多くの武将が織田方を去って別所氏に味方した。
秀吉は、何度も使者をたてて別所氏の翻意を試みた。更にその間、播磨の諸城を攻略していった。
一方毛利氏も別所氏救援のため西播磨の上月城を攻囲した。秀吉は上月城救援のため兵を向けたが、毛利の大軍に成す術も無く、信長の命令で撤退したため、上月城は落城し、尼子勝久は自害、山中幸盛(鹿之介)は捕らわれ、後に殺された。
摂津では、荒木村重が信長から離反し、有岡城に籠城した。
こうした情勢の中、天正7(1579)年、平井山本陣を構築、周囲にも付け城を配して別所氏の籠る三木城を包囲し、糧道を絶って後の「三木の干殺し」と言われる攻城戦を行った。
三木城では強硬論が高まり、平井山の秀吉本陣を攻撃したが、本陣からは三木城兵の動きが手にとるようにわかるため、却って損害を受け、長治の実弟別所治定も討死している(平井山合戦)。
こうした中、毛利氏も海上輸送を使って花隈城-丹生山明要寺-淡河城-三木城というルートで食糧を投入していたが、秀吉軍の淡河城を攻略、丹生山明要寺を焼討ちなどによって、このルートからの食糧補給は絶たれた。
この戦いに敗れた淡河弾正らが三木城に入城したため、却って三木城の食糧状態が悪くなってしまった。
毛利軍はこの事態を打開するため、毛利・別所双方が共同で出兵し、兵糧を三木城に運び込むという作戦を実行した。戦いは混戦になり、毛利軍は谷大善の守る平田砦を攻略、別所側も大村まで迎えの兵を出すが、淡河定範らが討ち取られて敗退、食糧の搬入も失敗に終わった(大村合戦)。
秀吉は備前・備中の宇喜多氏を味方に引き入れ、毛利氏への対策を固めた。また、11月には有岡城が開城して、摂津も織田方に抑えられた。
天正8(1580)年、秀吉は鷹ノ尾城宮ノ上砦を攻略、遂に別所長治は降伏を決意した。
降伏の条件は、城主長治一族の切腹であったが、吉親が頑強に抵抗を主張したため、家臣らに殺害されている。
長治は弟友之・家老三宅治忠らと共に切腹した。辞世の句は「今は只 恨みもあらず 諸人の 命にかはる 我身と思へば」。23歳の事であった。
三木合戦の後、城に入城したのは杉原家継であったが、本能寺の変後に近江坂本城に転じ、前野長康が入城した。
天正13(1585)年、長康は豊臣秀次事件に連座し改易となり、替わって中川秀政が入城した。
慶長元(1596)年、秀政嫡男の秀成が、豊後岡城に封じられ、但馬豊岡城の杉原長房がの持城となった。
慶長5(1600)年、関ヶ原合戦後、三木は姫路城主池田輝政の領地となり、家老・伊木清兵衛忠次が三木城代として入城した。
元和元(1615)年、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると、三木は小笠原忠真領となった。
忠真は幕府の支援のもとに新しく明石城を築城、三木城の資材を明石城の用材として使用し、三木城を廃城とした。
 現  況 三木城本丸跡は、上の丸公園となっている。
城内には「かんかん井戸」と呼ばれる井戸や、櫓台(天守台という石柱があったが、縄張図によると櫓台)土塁などが残されている。
往時の天守・御殿は現在の金物資料館付近にあったものと推定される。
周囲に土塀があるが、これは勿論復元されたものである。
正入寺のある平山丸には、土塁遺構も残されている。
全般的には市街化されており、遺構らしきものはかなり失われているが、それでも縄張図を見ながら歩くと、往時の地形が散見される事がよくわかる。
雲龍寺の脇には、別所長治夫妻の首塚があり、その脇には、三木城外郭の石垣で作った台座に乗った碑がある。
三之丸

二位谷川
(三之丸外掘)

二位谷川
(三之丸外掘)

大手橋
平山丸

正入寺参道

正入寺参道

平山丸切岸

正入寺境内

正入寺本堂

土塁跡か

土塁

竪掘状の溝
中嶋丸

本町滑原遺跡
案内板と出土石

本町滑原遺跡
案内板

中嶋丸と本丸
二之丸・西之丸

二之丸の三木城
本丸案内板

西之丸南切岸
雲龍寺

雲龍寺山門

雲龍寺本堂

別所長治首塚

別所長治首塚

外郭石垣石
の台座と碑

鷹の尾城

三木城本丸

宮ノ上砦
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