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| 所在地 | 高知県高知市浦戸 |
| 交通機関 | JR高知駅 高知県交通バス 龍馬記念館前下車 徒歩5分 |
| 別 名 | - |
| 略 歴 |
浦戸城は本山氏の支城として本山梅慶によって築かれたのが創築である。 本山氏は長宗我部元親と、土佐の主導権を握る戦いで敗れ、浦戸城は元親の支配下に入った。 天正16(1588)年、元親は本拠を岡豊城から大高坂山城へ移転し城下町の整備を開始した。 しかし、この頃の大高坂周辺は洪水が頻発したため、元親は大高坂を諦め浦戸城へ移っていった。 これは、朝鮮出兵を企図していた太閤秀吉の命によるともいわれている。 ともあれ、こうして浦戸城が長宗我部氏の本拠として整備され、天正19年には完成している。 慶長5(1600)年、元親の後を継いで土佐国主となった長宗我部盛親は、関ヶ原合戦で西軍石田三成に与した。 この戦いに敗れた盛親は、土佐へ引揚げて謹慎、井伊直政を通じて家康に謝罪した。しかし、兄・津野親忠が藤堂高虎を通じて家康に接近し、盛親に替って土佐を与えれるのではないかとの風聞に怯えて兄を殺したため、家康の激怒を買って改易となった。 替って土佐に封じられたのは、遠州掛川城主で関ヶ原合戦に功のあった山内一豊であった。 一豊の入国前、長宗我部氏の旧臣桑名弥次兵衛一孝を中心に一領具足が長宗我部氏の復帰を要求して浦戸城に籠城しようとした、浦戸一揆が発生した。 一孝は巧みに旧臣を欺いて、一豊の弟で城受け取りの任に当った康豊らを浦戸城に引き入れる事に成功、浦戸一揆は鎮圧された。 慶長6年1月8日、一豊は浦戸城に入城したが、3月1日、入封祝いとして桂浜で相撲を行うとして触れさせ、この相撲に集まった反抗的な長宗我部氏残党73名を殲滅している。 一豊は、浦戸城が海に近く、城下町の形成に不向きである事から、かつて元親が放棄した大高坂山城を整備して高知城を築城、慶長8年に入城すると、浦戸城は廃城となった。 |
| 現 況 |
浦戸城は、坂本龍馬記念館の建っている場所を詰ノ段(本城)とし、西方に向けて西二ノ壇・西三ノ段当方に東二ノ段を置く、比較的広大な山城である。 詰ノ段北東側には天守台が残されており、天守台入口横に浦戸城址碑と案内板が立てられている。 城址碑はもう一箇所、東二ノ段下郭、道路脇にも立てられている。 天守台南側には往時の石垣が移築保存されている。 東側は道路の開通などで遺構が失われているが、二ノ段下郭北側に堀跡が残されている。 西側は郭遺構のほか、三重堀切や土塁遺構など、比較的良く残されている。 |
| 東側曲輪群 |
| 桂浜 |
![]() 桂浜石碑 |
![]() 坂本龍馬像 |
![]() 桂浜 |
![]() 桂浜 |
| 尾根筋 |
![]() 尾根先端 |
![]() 尾根北側 |
![]() 堀切 |
![]() 堀切 |
| 東三ノ下曲輪 |
![]() 東三ノ下 |
![]() 東三ノ下 |
![]() 東三ノ下 |
| 東三曲輪 |
![]() 浦戸城案内板 |
![]() 浦戸城址碑 |
| 東二ノ下曲輪 |
![]() 東側切岸 |
![]() 東二ノ下への 道路 |
| 東二曲輪 |
![]() 東二曲輪 |
![]() 東二曲輪から 本城への土橋 |
![]() 東側空掘 |
![]() 西側曲輪群 |
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