帝國博物学協会
山城國
今里城
 所在地 京都府長岡京市今里2
 交通機関 阪急電鉄長岡天神駅下車 徒歩15分
 別  名 -
 略  歴 今里城は室町時代の中ごろ、能勢源左衛門尉頼弘が乙訓郡西岡郷今里郷に居を移した後、寛正年(1460〜66)間に築城された。
能勢氏はこの後今里城に居城し、代々足利将軍家に仕えた。
永正4(1507)年、細川政元が家督相続のもつれから発生した永正の錯乱で謀殺された。能勢賢頼は細川高国に味方したが、永正12(1515)年の下京の戦いで討死した。
賢頼の子頼行は、足利13代将軍義晴に仕えて、大永6(1526)年には石清水八幡宮参詣に供奉している記録が残されている。
頼行の弟光頼は、足利14代将軍義輝に仕えたが、永禄8(1565)年、義輝が松永久秀ら三好三人衆によって殺害されると都を辞して今里城に戻った。
永禄11(1568)年、足利義昭が織田信長の後援で上洛し、15代将軍に就くと、光頼の子頼広は義昭に出仕して、再び将軍家に仕えた。
天正元(1573)年、足利義昭が信長と反目して拳兵した。頼広は義昭の手下として軍勢を出し、義昭と共に二条城に籠城したが、ここで討死した。
この戦いで能勢氏は没落し、今里城は廃城となった。
 現  況 今里郵便局西側のマンションの駐車場前に今里城の案内板が立っている。
平成2年の発掘調査で、南北方向から折れて西へ延びる堀と井戸、木橋が発見され、羽子板や刀形、木簡、漆器椀、陶磁器などが出土した。
堀は幅5〜7メートル、深さ約2メートルの断面が箱形と、これに接続する幅2メートル、深さ1メートルの断面がV形のものがあった。また、発見された木簡の頭部には紐穴があり、表と裏に「ひこ五郎」・「大永二」と書かれていた。
現在遺構は埋め戻されており、地表面から遺構を確認する事はできない。

今里城案内板

今里城址付近

今里城址遠望
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