帝國博物学協会
大和國
郡山城
 所在地 奈良県大和郡山市城内町 他
 交通機関 近鉄奈良線 近鉄郡山駅下車 徒歩10分
 別  名 大和郡山城・犬伏城
 略  歴 天正8(1580)年、それまで大和を支配していた松永弾正久秀が、織田信長に叛いて信貴山城に滅ぶと、大和は筒井城に本拠を置く筒井順慶に与えられた。
順慶は筒井城を廃して郡山城の築城を開始した。
天正10(1582)年、信長が本能寺の変によって横死した後、明智光秀が順慶に援軍を要請した際に、順慶は洞ヶ峠に陣を敷いて様子を見たと伝わって、洞ヶ峠を決め込むなどのあまり芳しくない慣用句で伝わってきたが、現在では光秀方が洞ヶ峠で順慶の軍勢を待っていたことが判っている。
天正11年には天守が揚げられた事が多聞院日記によって確認できる。
天正12年、順慶が36歳の若さで死没すると、養子の定次が後を継いで郡山城主となったが、秀吉によって伊賀上野城に移された。
翌天正13年、秀吉の弟秀長が大和・和泉・紀伊三ヵ国100万余石の領主として郡山城に入城した。
秀長は七重の天守を築くなど、100万石の大大名として相応しい城として、郡山城を拡張・整備した。
この拡張の際、石材の収拾に苦労したようで、大和国中の墓石や地蔵までもが掻き集めて資材として用いられている。
天正19(1591)年に秀長が没すると養子の秀保が後を継いだが、文禄4(1596)年、17歳の若さで死去、跡継も無かったため、豊臣家は断絶した。
替って五奉行の一人、増田長盛が22万3千石の領主として入城した。 長盛は郡山城下を含む外郭を構築している。
慶長5(1600)年、関ヶ原合戦では大坂城に詰めていたため、戦後所領を没収された。
家康は郡山城の建物の多くを、戦で荒廃した伏見城に移築された。
この時秀長の築いた天守も移築され、この天守は後に二条城に移されている。
こうして荒廃した郡山城は、奈良奉行大久保長安が在番していた。
慶長13(1608)年 筒井定次が伊賀上野城を改易となると、順慶の養子定慶が筒井家を相続、10000石を領して郡山城に復帰した。
元和元(1615)年、大坂の陣を前にして豊臣方の大野治長が襲来したため、定慶は城を捨てて落ち延びた。 この責を負って定慶が自害したため、筒井家は断絶した。
替って三河刈谷城から水野勝成が60000石で入城した。
勝成は郡山城を幕府の力を借りつつ復興し、5年後の元和5(1619)年、備後福山城に移封となった。
替って松平忠明が大坂城から120000石で入封した。
寛永16(1639)年、忠明は播磨姫路城180000石に加増転封となり、入れ替って本多政勝が150000石で郡山城に入城した。
本多氏は3代に渡って郡山城にあったが、延宝7(1679)年、3代忠国の時に陸奥福島城に転封となった。
替って播磨明石城から松平(藤井)信之が入城した。
貞享2(1685)年、信之は下総古河城に転封となった。
替って下野宇都宮城から本多忠平が120000石で入城した。
本多氏は5代38年に渡って郡山を治めたが、享保8(1723)年、5代忠烈が夭逝したため嗣子無く断絶となった。
翌享保9年、甲斐甲府城から柳沢吉里が151000石で入城、以後柳沢氏は6代に渡って郡山を治め、保申の時に明治維新を迎えた。
 現  況 郡山城本丸には、藩祖柳沢吉保を祀る柳沢神社が鎮座しており、神社本殿の裏手に天守台が残されている。
城址は全般的に文教地区となっているため、二之丸・麒麟郭などの郭には入ることができない。
城内には建築物は現存していないが、追手門である梅林門や、追手向櫓・多聞櫓・追手東隅櫓などが復元されている。
外郭については、南東部の常念寺裏に土塁が残されているが、そのほかにも掘が断片的に残されている。
外郭(総構)

郡山城外掘跡
石碑

郡山城南東側
外掘公園

常念寺裏土塁

常念寺裏土塁

常念寺南外掘

材木町東外掘

材木町東外掘

材木町東外掘

材木町東外掘

材木町東外掘

材木町東外掘

薬園八幡宮南
外掘

薬園八幡宮南
外掘

外掘公園入口
高麗門

源九朗稲荷神社
南東側土塁

七ッ井戸跡

柳里恭屋敷跡
柳郭(三之丸)

郡山市役所
南側水濠

郡山市役所
南側水濠

頬當門跡

柳御門跡

柳御門跡

柳御門跡

五軒屋敷跡

桜御門跡

伝弁慶足形跡

柳郭西側石垣

柳郭西側石垣

郡山城内
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