帝國博物学協会
大和國
筒井城
 所在地 奈良県大和郡山市筒井町字シロ畑
 交通機関 近鉄橿原線 筒井駅下車 徒歩10分
 別  名 筒井順慶城
 略  歴 筒井城の創築時期は不明だが、満済准后日記の永享元(1429)年の項に、筒井館と記載されているのが初見である。
この時の城主は筒井順覚であった。
嘉吉元(1441)年には、城主は筒井順永であろ、これ以後度々筒井城は戦乱に巻き込まれ、その度に落城の憂き目にあっている。
応仁の乱の勃発後、畠山政長に与していた順永は、康正元(1455)年7月2日、畠山義就軍に筒井城を攻囲された。
順永・光宣父子は籠城したが、貝吹山城の越智伊予守が義就軍に参陣して、筒井城攻囲軍に加わったため、8月19日に筒井城は落城、筒井父子は城を逃れた。
筒井氏が帰城したのは、4年後の長禄3(1459)年6月1日の事であった。
文正元(1466)年10月16日、再び畠山義就軍が大和に侵攻し、筒井城は三度落城、順永は箸尾城に逃れた。
その後勢力を盛り返し、順永は十市氏、布施氏、宝来氏、木津氏、箸尾氏、福住氏等多くの国人衆を束ねて支配域を増やしていった。
文明8(1476)年、順永が死去すると、翌文明9年、越智家栄、古市氏の連合軍が後を継いだ筒井順尊を筒井城に攻め、これを福住城に追った。
文明15(1483)年、三度侵攻した畠山義就軍は筒井城を攻撃、城主順盛を後詰した箸尾氏が調略で攻撃側の古市氏に寝返ったため、四度筒井城は落城した。
こうして勢力が衰えた筒井氏であったが、永正の錯乱の後、大和を支配していた赤沢朝経、赤沢長経軍が京に退くと、大和の覇権を巡り争う事となった。
永正13(1516)年10月、宿敵越智氏、古市氏が筒井城を攻城、五度落城の憂き目にあい、筒井順盛逃れ去る事になった。
永禄2(1559)年、松永久秀がに大和へ侵攻してくると、永禄8(1565)年11月に筒井城は攻城を受け六度落城、当主となっていた順慶は脱出して奪回を画策、翌永禄9年に一時的に奪回したが、永禄11(1568)年10月、再度松永軍に奪われた。
久秀は居城信貴山城、多聞山城と共に筒井城を重要拠点とし整備した。
一方順慶は、勢力の回復を目指して転戦し、元亀2(1571)年8月、辰市城の合戦で久秀軍を破り、織田信長の家臣、明智光秀の仲介で井城を回復した。
天正5(1577)年、久秀が信長に叛旗を翻して滅ぶと、大和は順慶の支配に任された。
天正8(1580)年、順慶は織田信長の出した「大和一国破城令」に従って、居城を郡山城に移し、筒井城は廃城となった。
 現  況 城跡は近鉄筒井駅から小さな案内板に従って東に向かうと、細い路地を入ったところにいきなり「筒井順慶城址」碑が忽然と現れる。
ここから東側一帯に筒井城主郭が広がる。
筒井城は低湿地帯に築かれた囲郭式の城郭で、主郭南側にその痕跡である蓮田が残されている。
南東側の八幡社内に筒井順慶公之碑が立てられており、順慶の事績が顕彰されている。
外郭

外郭堀跡

筒井順慶公之碑

由来解説碑
二郭

筒井順慶城址碑

ニ郭跡

南側水濠跡

南側水濠跡

西側堀跡
主郭

主郭南側水濠

主郭跡

主郭跡

主郭北側切岸

主郭西側切岸

主郭跡

主郭西側

主郭西側遠望

主郭西側切岸
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