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城郭研究部 城郭用語集 作事篇 |
(いりもやづくり) |
屋根の上部では正面から見て前後二方向に勾配を取り、下部においては四方へ勾配を取る屋根 右の写真は、熊本城源之進櫓 |
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(よせむねづくり) |
大棟の両端から四隅に葺きおろした屋根 右の写真は、川越城家老詰所 |
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(きりづまづくり) |
屋根の短辺を切り落とした、二つの傾斜面が本を伏せたような山形の形状をした屋根 右の写真は、高知城納戸櫓 |
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(かぶきもん) |
二本の門柱の上部に冠木を組み込んだごく簡単な門 右の写真は、延岡城南大手門 |
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(へいじゅうもん) |
二本の門柱と扉だけからなる簡素な門。 右の写真は、飛山城東門 |
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(やぐらもん) |
上層と下層からなる二階建ての門で、上層が櫓となって、入母屋または切妻屋根となっている 右の写真は、弘前城大手門 |
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(わたりやぐらもん) |
門の両脇に石垣・土塁などを配し、門の上に渡り櫓を渡した形式の門 右の写真は、二条城東大手門 |
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(こうらいもん) |
二本の主柱上に切妻屋根をあげ、主柱の後ろに控柱を配し、主柱と控柱の上にも切妻屋根をのせた形式の門。桝形虎口二の門に用いられる事が多い。文禄・慶長の役でもたらされた事から、高麗門と呼ばれているともいう。 右の写真は、山形城東大手二之門 |
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(ながやもん) |
長屋状の建物の一部に門を設けた形式の門。脇の長屋には、番所・仲間部屋などを設けていた。近世の武家住宅の門として専ら用いられた 右の写真は、岩槻城黒門 |
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(からもん) |
唐破風を門正面にあしらい、腕木・肘木などに多くの彫刻を彫った形式の門。寺院などでは、勅旨門として用いられる事が多いが、城郭では御殿前の門として使用される例が多い 右の写真は、一乗谷朝倉氏館西門 |
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(むねもん) |
唐居敷という礎石上に2本の柱を立て、冠木を渡し、下方に蹴放しを据え、冠木の上に肘木を置いて、屋根組みをした形式の門 右の写真は、八戸城角御殿表門 |
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(よつあしもん) |
四脚門ともいう。二本の大柱の前後に4本の袖柱を立てて屋根を支え、切妻または平唐破風造りの屋根を乗せた形式の門 右の写真は、掛川城四足門 |
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(やくいもん) |
棟門の発展形式で、門柱の内側に、控柱2本を立て、屋根の荷重を一部負わせる形式の門 右の写真は、西条陣屋表門 |
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(うずみもん) |
門内が方形に窪み、階段を上がり郭内に入る形式の門で、戦時にはこの窪みに土砂や石を詰めて埋めてしまう事から、このように呼ばれた 右の写真は、姫路城ほの門 |
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(てんしゅ) |
古くは殿主・天主とも呼ばれた。本来の目的は、平城から遠くを見渡すための望楼であり、最初の天守は尾張の楽田城に築かれたと言われている。 天守が大型化・城主の権威を示す建物になったのは、織田信長の築いた安土城以降の事で、安土桃山〜江戸初期にかけて、盛んに建てられた。 江戸幕府がによる統治が安定すると、幕府は天守の建築を厳しく禁じたた。 また、維持にも多額の費用が掛かるため、新築はもとより、落雷や火災で失われた天守が再建される事も少なくなった。 右の写真は、現存最古の天守丸岡城天守 |
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(ぼうろうがたてんしゅ) |
初層または二層目の入母屋屋根の上に回り縁をもつ望楼を載せた形式の天守。正確方形に石垣を築けなかった、初期の天守に多い。 代表的な例としては、岡山城・丸岡城・熊本城・姫路城・彦根城など 右の写真は、犬山城天守 |
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(そうとうがたてんしゅ) |
初層から一定の割合で床面積を逓減させていく形式の天守。慶長15(1610)年以降建てられた。 代表的な例としては、江戸城・名古屋城・宇和島城・福山城・亀岡城など 右の写真は、弘前城天守 |
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(唐造天守) (なんばんづくりてんしゅ) |
天守最上階を、下層階より大きく張出して造る形式の天守。 代表的な例としては、高松城・津山城などあるが、現存していない。 右の写真は、小倉城模擬天守 |
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(どくりつしきてんしゅ) |
独立して付櫓や渡櫓が接続していない形式の天守。 右の写真は、高島城復興天守 |
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(ふくごうしきてんしゅ) |
天守本体に付櫓が直接接続している形式の天守。 右の写真は、小田原城復興天守 |
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(れんけつしきてんしゅ) |
天守に渡櫓を通して小天守など櫓が接続している形式の天守。 右の写真は、熊本城復興天守 |
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(れんりつしきてんしゅ) |
天守に複数の小天守や櫓を、中庭を囲んで渡櫓で接続している形式の天守。 右の写真は、姫路城天守 |
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(ごさんかいやぐら) |
江戸幕府は、天守を建築することに関して、非常に厳格に規制した。そのため、天守建築ではなく三階櫓の建築として届けられたのが、御三階と呼ばれる天守代用の櫓であった。 主に、譜代の大名の城で建築されたが、外様大名の城でも、天守焼失後は幕府に遠慮して天守代用として用いられている。 右の写真は、忍城復興御三階櫓 |
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(すみやぐら) |
櫓とは、矢倉・矢蔵・兵庫等とも呼ばれ、平時は武器の保管庫、戦時は物見に利用された建物である。 隅櫓は、曲輪の隅に建てられた櫓の事で、方位の名前がつく場合が多い(辰巳櫓・丑寅櫓など)。 右の写真は、挙母城復興隅櫓 |
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(たもんやぐら) |
松永久秀が多聞城に最初に建てたといわれる長屋状の櫓。 右の写真は、江戸城富士見多聞櫓 |
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(さんじゅうやぐら) |
屋根を三層とした櫓。天守に代わって城主の権威を表す櫓として利用された事が多い。 屋根が三層なので、内部の階数が4階〜5階であることも多い。 右の写真は、明石城巽櫓 |
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(にじゅうやぐら) |
屋根を二層とした櫓。櫓で一番多いのが、二重櫓である。 櫓には、武器庫であった事を示す鉄砲櫓・硝煙櫓、食料庫であった事を示す干飯櫓・塩櫓、大手付近や水手門付近にあった着到櫓・潮見櫓など、様々な名前が付けられている。 右の写真は、福岡城潮見櫓 |
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(たんそうやぐら) |
屋根を一層とした櫓。 戦国期の中小城郭や、見通しの良い山城などで主に用いられた。 右の写真は、勝龍寺城復興隅櫓 |
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(せいろうやぐら) |
組上げ式で城から遠くを望むためのの望楼櫓のこと。 戦国期の、遠見の利かない平城の中小城郭で組み上げられた。 右の写真は、小口城模擬井楼櫓 |
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(ぬりごめ) |
土壁の表面を白漆喰で仕上げたもので、優美な外観を見せる。 比較的遅れて登場し、江戸期になって全盛期を迎えた仕上げであるが、一方漆喰は水分を透過するため、耐久性は劣る。 10年程度で剥落が始まるため、姫路城のような大城郭になると、一年中どこかで修復が行われている状況となる。 右の写真は、彦根城佐和口多聞櫓 |
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(したみいたばり) |
土壁の表面に煤や柿渋を混ぜて作った墨を塗った板を、少しだけ重ねて横方向に板を張って仕上げたもので、無骨な外観を見せる。 古くから存在する仕上げ方法で、戦国末期に全盛期を迎えた仕上げ方法であるが、江戸期も塗籠と共に併用されている。 横板が水分を防ぐため、耐久性に勝り50年以上保つ事が可能であった。 右の写真は、熊本城西出丸土塀 |
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(なまこかべ) |
土壁の表面に平らな瓦を釘で打ち付け、目地に漆喰を海鼠状に盛り上げた仕上げ方。 耐火性・耐久性に優れた仕上げ方であった。 右の写真は、金沢城鶴之丸土塀 |
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(かやぶき) |
河原に生えている茅の類で葺いた屋根の事を言う。 主に民家に用いていたが、中世の城館では用いられたと考えられる。 右の写真は、根城中館復元建物 |
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(こけらぶき) |
厚さ3mm程に削いだ薄い板を重ねて葺いた屋根の事を言う。 主に寒い地方の屋根として用いられたが、御殿などにも用いられた。 木材のため耐久性が悪く、10年程で葺き替えが必要となるため、江戸時代には藩財政を圧迫することとなった。 右の写真は、高山陣屋吟味所 |
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(ひわだぶき) |
檜の皮を削ぎ、厚く重ねて葺いた屋根の事を言う。 優美な曲線を描く事から、主に御殿の屋根として用いられた。 柿葺と同じく耐久性が悪く、10年程で葺き替えが必要となった。 右の写真は、二条城二之丸御殿唐門 |
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(かわらふき) |
中国伝来の屋根の葺き方で、耐久性に優れていた。 戦国期までは、主に寺院に用いられたが、座の支配が終わった戦国末期になると、城の屋根としても利用されるようになった。 丈夫な反面、寒冷地では割れてしまうという欠点があった。 右の写真は、佐土原城二之丸復元御殿 |
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(どうがわらふき) |
瓦葺きの応用で、金属の銅を瓦型に整え、城の屋根として用いた。 瓦屋根より耐久性に優れ、軽く仕上がるため、天守など大建築に使用された。 右の写真は、名古屋城大天守 |
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(なまりがわらふき) |
瓦葺きの応用で、金属の鉛を瓦型に整え、城の屋根として用いた。 瓦屋根より耐久性に優れ、寒冷地で利用された。 また、戦時には鉛を溶かして、鉄砲の弾とする利点もあった。 右の写真は、金沢城二之丸菱櫓 |
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(いしがわらふき) |
瓦葺きの応用で、石材を瓦型に整え、城の屋根として用いた。 瓦屋根より耐久性に優れ、寒冷地で利用された。 右の写真は、丸岡城天守 |
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(どばし) |
堀の一部を残して、馬や人が通る通路としたもの。 重要な城門の前の橋は、落ちては困るため、土橋とされた。 右の写真は、花輪城土橋 |
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(きばし) |
木造で、堀に掛けたため、掛橋とも呼ばれる。 敵の攻撃には、橋板を外したり、橋そのものを落としたりして対処したが、一方で攻撃側が兵糧攻めなどをする際には、焼き落とされる危険性もあった。 右の写真は、乃井野陣屋木橋 |
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(いしばし) |
木橋を石造りで造った橋。 木橋より耐久力があり、耐用年数も木橋より長い。 右の写真は、鶴丸城大手石橋 |
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(ろうかばし) |
橋上に多聞櫓のような建物を乗せて、周囲からの防御としたもの。 右の写真は、高知城詰門 |
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(いぬばしり) |
石垣上に塀を築く時に、天石上に直接築くのではなく、天石の地表に出ている部分を避けた内側に築く場合があった。 その時の天石の端から土塀までの間の20〜30センチの空間を、犬ぐらいしか走れない事から、犬走りと呼んだ。 右の写真は、福山城本丸犬走り |
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(むしゃばしり) |
土塁や石垣などの上に土塀が築かれている時に、土塀の内側に幅50〜100p程度の空間を作った。 戦時には防御の兵士がこの部分を走って移動したため武者走りと呼ばれた。 右の写真は、赤穂城本丸虎口武者走りと雁木 |
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(がんぎ) |
土塁や石垣などの上に登るため、階段上に石を積む事がある。 これを雁木といった。 右の写真は、福井城本丸北側雁木 |
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